裕福さと潔癖さの独善と責任と

 本日は、水曜日レディースデイということで、映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』を鑑賞.その上、会員カードを見せてグレードアップさせ、プレミアムシートにてゆったりリクライニングして鑑賞.が、ゆったり系の映画ではなかった・・・.



 ネタバレするもののwikipediaで該当ページを読んでから見るべき作品.
 日本人こそ、ネタを解かって、ついでに原作・ボラット役の人物がどんなバックグラウンドを持っているか知ってから見るほうが考えさせられる.

 知らないで見ると、基本的に 日本人はだいぶ引くはず.「やりすぎ」「いきすぎ」と思うか、「マジでカザフスタン人ってこんななの!?」と引く.(「普段から少年漫画雑誌読みまくって 下ネタも差別発言も大好きです!」って人は 単純に見ても楽しめるのかもしれないけど・・・)ただ、それでも鑑賞後に一度はwikipediaの該当ページを読むべきだと私は考える.


 熟考モードとしてならば、表面上の過激さに囚われないよう「賢い風刺ドキュメンタリー」として見るべき映画.決してカザフスタン人があんなはずはないだろうし、中に出てくる数々の差別発言についても 原作・主演者であるサシャ・バロン・コーエンがその差別対象該当者(ユダヤ人)だからこそ、また深みがある.彼の「永遠に壊れてしまうもの」への配慮も美しい.身体を張った作品.
 サシャは、ケンブリッジ卒で歴史を学んだと書いてあったが、本家のwikipediaを読む限り、まさにアメリカの黒人差別問題である公民権運動をテーマとしていたようだ.
 内容は行き過ぎるほどだが「異文化に触れた時、人種の坩堝であるはずのアメリカ人がどう対応するか」ということをヤラセ無しの部分も含めて収録しているもの.(サーシャ自身にはシナリオがある「ヤラセ」だけに、半分ヤラセ・半分ドキュメンタリーのことを「mockumentary」と言うそうです.浅学につき私は初めて知りました.)
 差別反対を論じている団体こそが、異文化に触れた時に差別的な対応しか出来ないこと.勢いやアジテートされた「文言」には違和感なく乗って来るにも関わらず、それが本質的なところまで行き過ぎた語句に言い換えられた途端に 態度を変える人々.アジテートも更に洗脳に近くまでなると、疑いも無く 文化・領域を作り上げてしまう・・・.

 正直言って、日本人もほとんどの人がアメリカ人と同じ対応しか出来ないはずだ.上記のように明らかに「これは風刺です」と理解して観ると、エピソード一つ一つに疑問を持てるだろうが、それが無ければ確実に日本人は ほとんどのアメリカ人の対応こそが 常識的な反応に思えるはず.だからこそ、冒頭に「日本人こそ、ネタを解かってから観るべき」だと書いた.
 裕福であるということ、異国のルールが身近ではないということ、一般常識を疑わなくてもいいということ・・・日本人の置かれた環境は、恐ろしく視野を狭める可能性があるということを じわりと感じさせられる映画であった.



 ただし、最近こういった「弱さの強さ」的な考え方にも一寸呼吸を置くことにしている.今、ハンス・アビング(2007)「金と芸術 ―なぜアーティストは貧乏なのか?」グラムブックス という本を読んでいるが、冒頭部分に

 ■一般的に存在する成層において、「より上昇したい」という欲求は存在する

 ■高い位置に居る人々は、低い位置に居る人々の芸術を見下すが、低い位置に居る人々は、高い位置に居る人々の芸術を尊敬する
  →これは芸術の定義において、事実上高い位置にいる人々が大きな発言権を持っているからである

というような記述があり、私は 目から鱗・言い得て妙だと感じさせられていた.今回のアメリカ人の対応について これに近い感覚を持っている.先進国の豊かで真摯で潔癖なルールを悪いとは思わないし、むしろ長い間の努力と蓄積によって洗練された素晴らしいものであるとも思っている.誰も人として優劣があるわけではないが、いかに異文化を理解しようと思っても、文化や経済レベルとして「では皆が一緒に、槍で獣を得て洗濯は川で行う生活をすればいいんだ」とは言わないはずなのだ.
 しかし、その裕福さや潔癖さを持ち合わせていない場所・人と出会ったとき、国境に関係のない「一人の人」として、どのように対応し、お互いが幸せな状況に共存・協働していけるものだろうか.考えていく必要があるのだろう.