【広告】が一括りで表現できなくなるとき


#こんにちは、、、ご無沙汰してます.
#このネタ、会社で5月初旬に書いたんだけど
#そろそろ賞味期限切れってことで こちらに転載.



【目次】
1.一括りにするのはやめよ
2.さらすためのPromotionの限界
3.「コウコク」という仮面
4.情報非対称性解消の功罪(真には功)
5.純粋なる「売上を作る」価値を作れ


1.一括りにするのはやめよ
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 先日、日経産業新聞の「眼光紙背」というコラムに「ネット広告での構造変化」という記事が出ていた.この見出しを読んだときに「やっとここまで話題が辿り着いたか!」と思ったものだが、内容自体はちょっと物足りないものだった.
 今回のタイトルは「広告が一括りで表現できなくなるとき」.
 上述した日経産業新聞で書かれているのは「ネット広告もバナー広告が主流だった時代から、検索連動や携帯向けなど 構造が変わってきている」という あーそう で終わる記事なのだが、私が考えているのはむしろ「広告という概念自体がシフトすべき時が来るよ」という話だ.

 そもそも広告とは何がしたかったのか.
 当たり前のことだが究極には「売上を増やす」ためである.売上を増やすために、何をするか.まず知ってもらわないと売れないのだから、周知しなければならない.そしてそれも、買いたい人・買う可能性のある人に知ってもらわなければならない.



2.さらすためのPromotionの限界
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 看板や新聞の広告枠は、簡単に言えば「スペース貸し」であり、さらすという方法を取ったPromote方法である.対して検索広告は、さらしているというよりも 買う可能性の在る人に「情報をMatchingしている」のだと捉えることができるだろう.もちろん、どれが完全にどっちだとは言い切れないことは分かっている.リアルでもバーチャルでもスペースが無ければ、どんな人も集まることは出来ないので、結び付けることができなくなるからだ.ここでの話題としては 意思としてどちらを意識しているか、の話をしている.

 私はこのさらすだけのPromotionは、当たり前のようにその規模がシュリンクして行くと考えている.そもそもMarketingの基礎であり原則に立ち返ってみれば、マス広告なんてものが、メインのPromotionになるとは考えにくい.(大衆に一般的な価値観を植え付けるブランド構築などには効果が在るだろうが、ほとんどの広告は何らかの「一製品」をPromoteすることが目的のはずで、その対象となる顧客のセグメンテーションを考えて ピンポイントに攻めるほうが効果的で在るはずなのは周知の事実だろう)
 Internet上の「さらす」に近い広告としてのバナー広告も、だんだんとPay Per Clickで補償するものが多くなってきた.これは在る意味 たださらすだけではその効果の結果が見えない(従来からの広告の悪い点)部分を 技術(ツール)の力で見える形にしている、強いて言えば「代理店の業務」をTechnologyによって代替できる部分が出来てきたということだろう.



3.「コウコク」という仮面
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 そもそも検索という行為自体が、適切情報のMatchingであるということは「強く」意識しておくべき点である.検索サイトは何を売っているのか、ここで「広告費売上だ」と言ってしまうから、従来の広告代理店ビジネスとGoogleのビジネスが同じように見えてきて思考停止に陥っていることを指摘したい.
 先ほども書いたが、検索とは情報のMatchingなのだ.もっと言えば、人が欲している(欲する前でも)モノ・コトを ひょいと提示してあげるコーディネーターであり、コンシェルジュこそが検索ビジネスの根源的な意味なわけだ.だからこそ、様々なコンテンツとの連携も取りたいし、その特徴も把握したいし、そのInterfaceになるようなソフトも開発しているし、行く行くはハードウェアも開発が広告費枠に計上されるかもしれない.Googleでは彼らのコンテンツの一つ、として広告は存在し、・・・いやこの言い方も誤解をまだ与えるだろう.彼らは様々な「そのときお金を払ってでも その企業が売りたいと思っている商品」情報をコンテンツとして抱えている、ということなのだ.それって、売上を得ているだけではない.逸早くその企業の売りたいものを知ることもできるし、顧客とのMatchingをさせる上で「どこに売りたいの?」「何が狙いなの?」というその企業の戦略まで筒抜けになるってことだ.
 しかも彼らにとっての醍醐味は、コンテンツ自体を操作できる立場に居るということだ.ルール自体が自分たちで出来るからこそ、Google八部や2bigfeet.com(『ザ・サーチ』第7章サーチエコノミー参照)のような問題が起きるわけだ.広告主の戦略を知るだけでなく、自分たちにとって「より旨味のある相手」との関係性をも操作できる.
 彼らにとって、これはメイン事業そのものであり、付属物ではない.

 では他に、核となる価値としてPromotionが成り立っているものはあるだろうか.名前のそのモノであるPromotionVideo(音楽)など、まさにそうなりつつあるだろう.PVが欲しいから映像付きCDを買う、DVDを買うなど一般的に成り立っている.
 在る意味、広告側から発展してコンテンツに行き着いたのか、コンテンツ側からmerchandisingとしてサッカーチームのマフラーだとか、マグカップだとか広告の役割を担ってしまったのか それだけの問題であって、それ自身コンテンツとしての価値があるのだ.



4.情報非対称性解消の功罪(真には功)
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 もう一つ考えておくべきは、雑誌や新聞、テレビで流れる記事などの「コンテンツ」の存在だ.これは見ての通り、その発行者にとってはコンテンツで在る.彼らがあくせく働いて、自分たちのことを書いてくれるなんて、いい広告になった!なんて胡坐をかいててはいけない.発行者の意思でルールが成り立っている世界は、発行者にとって一番メリットのあるようにしか書かない.
 ここで恐ろしいのは、技術による情報非対称性・デジタルデバイドが解消されつつあるという現実が、「真実の価値が知られやすい時代」を齎したことだ.いかにそのコンテンツ発行者が良いように書いてくれても、そのものの消費者がたくさんの本音を発信する.そうすれば、「この記事は正しくない!」という商品と記事に対するネガティブなインパクトを与える.発行者はなんらか裏で賄賂?広告費?を貰えない限り、本音で記事を書き出すことは自明で在る.
 人々は正しいものを求めている.だからこそDisclosure/Informed Consentという活動が重視されるわけだ.嘘や誇大広告が重なれば信頼は落ち、どんなにたくさんの広告にお金を使っても、人々にはkakaku.comでの評価しか効果がなくなってしまうだろう.



5.純粋なる「売上を作る」価値を作れ
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 大事なのは、そもそもの目的である「売上を増やす」ための自問自答である.広告が一つの収入源になっているならば、その広告とは自らのビジネスにおいて本質的に何をしているのかを考えることが重要だと考えている.
 例えば、広告を収入源としているサイトが (それが広告収入を増やす方法だから)人の入りを増やすために、他のところでPromotion活動する・広告を打つとはどういうことなのか考えてもらいたい.ねずみ講?とまでは言わないが、本質的な価値が何かという問題に耳を塞がないで欲しいと思う.(ただし、広告収入しかない事業で 尚且つ 他の目的がある事業が全てに意味が無いとは思っていない.物事には時系列的にも割合的にも FundとProfitのバランスがあるので.)
 学生時代に面白い体験をしたのだが、私は 大量に「ベンチャー起業家」が跋扈している環境に身をおいていた.(かくいう自分も法人を持っていたわけだが、それは棚に上げて)その中に「起業家支援をするビジネスを起業しました!」という連中が腐るほどいたのだ.まさにねずみ講モデルで正直苦笑してしまった.

 前述したようにそれは、広告としても意味が在るモノが それ単体としても価値を持つことが非常に多くなっている.改めて考えれば当たり前なのだ.いいものを作れば価値が在ると判断される.それだけいいものならお金を出しても買いたい人間は出てくるのだ.


 それでは、核の事業として検索サイトをやっているわけではない企業は、この現象から何を糧とできるだろうか.確かに うまい広告枠の使い方は考えられるようになるだろう.むしろ自分たちが広告収入を得るとしたら、ただ「枠を提供する」だけの広告が 徐々に市場価値を失って行くという限界を意識しておくこともできる.しかしそもそも、例えばHardやContentsを作っているMakerという立場にいるとすれば、本質的に「ただ他人の商品を売る手助け」をすることをmainstreamにしていいのか?という問いが必要だ.
 逆に言えば、さまざまなモノを作っている者として、どうすればモノを買ってもらえるようになるのか ということを踏まえて(分析し、自分たちの 知とするという意味)、それを人に認識しやすい形に「持っていける」仕組み・場・デバイスを提供するなんてものは有りだとは思う.(もう少し違う考えを私は持っているが.)
 よくよく本質的に、「人々に何を提供したいか」を考える必要が在るだろう.