空気読む思考と創造力と日本人特性

どうも、こんばんは.河野です.いろいろでちょっとなかなかエントリーできないんすよ.でも、更新しないんですか?って聞いてくださった方が居るので書くことにします.


 さて、久々のエントリーとなりますが、最近ちょっとわけあって物事の「概念化」と「理解・認知」の構造について興味を持っております.その関係で、今井むつみ・針生悦子(2007)「レキシコンの構築 −子供はどのように語と概念を学んでいくのか」という本を読んでおりまして.まぁいろいろ今自分なりに、物事の語と意味と属するカテゴリ概念についてプチ実験をしながら過ごしている人間としては、子供が初めての語と出会ったとき、その対象を「固有名詞」として認識するのか そうでないのか、というのは気になる論点であります.ちょうどこの本にはそれを対象とした実験の結果が書かれておりまして、それがとても興味深い.結果としては カテゴリで認識していると言う話なのですが、まぁそこらへんの詳しい内容は、書籍自体を読んでいただくとして、本題とはあまり関係ないのですが実験の中の条件付録のような記述を読んでいてふと思ったことがあるので、書くことにしたのであります.
 

 ところで、新しい語を導入する際の「これはネケだよ」といった教示を英語で言うとすれば、”This is a nake”,”This is Neke”,”This is some neke”というように、「ネケ」という語が何を指すかによって、複数の言い方を使い分けなければならない.もし”This is a nake”というなら、'neke'とはカテゴリーの名前であり、”This is Neke”なら'Neke'は固有名詞であり、”This is some neke”なら'neke'はそのものの素材を指しているということになる.それに対して、日本語では、いずれの場合も「これはネケだよ」で済ませることができる.つまり、日本の子供は、英語圏の子供に比べて、それだけ不確定性の高い状況で、新しく出会った意味推論をおこなわなければならないのだといえる.

 ここを読んで、ああそりゃ「行間を読む」とか「空気を読む」ということに普段から慣れるはずだな と思ったわけである.とともに、ものづくりに才能を発揮した日本人のその創造力・想像力は、日本語自体がその曖昧性の高い意思媒体であったことから、常に想像補完強いられることが多く 幼少時からトレーニングされ鍛え抜かれているために、とても親和性の高い能力として結びついていたんでなかろうか.という急な思いつき.

 そう、最近強く感じることは、「何かを発想するとき どれだけ既存の限界を取り払ってシンプルに本質を想像できるかということが非常に重要になる」ということだ.渦中にいると、どうしてもちょっと地に足が着いてないんじゃないかとか、袋小路に入ってしまっているんじゃないか とか不安になってしまうものだが、その不安を差し置いても 今ある既存の概念や制約、先入観を取り払って想像できると そりゃ良いものが考えられたりする.その創造性というのは結構危ういもので、不安感に屈しない「慣れ」もあれば、セロベースに立ち返って抽象化することのできる既存の壁を気にしない「度胸」も必要になるわけだ.
 とにかく、壁を越えるセンスも必要だが それが最大瞬間風速のときだけではなく繰り返せるだけの慣れ・トレーニングもかなり重要になってくるんだ、ということを実感する機会が多かったために、今回の「日本語の曖昧想像補完」の事実を再確認し、ほほうと思ってしまったわけだ.