自ら作り上げる、ということ

 このところ、風邪を引いてもなかなか治らないし、お肌の調子も一度崩れると治らないし、腰をひねってからぜんぜん治らないし、、、と歳を感じる日々ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?大きな困難に陥ると、心へのインパクトから少し遅れて身体にガタが来るのだと知った26歳の晩秋です.


 今日、カンブリア宮殿を見ていて知ったのだが、日本にも「観光庁」ってものができていたらしい.観光が国の重要産業になるということについて、ぱっと思うことは2つ.「産業としてOutすることではなく、呼び込む方向にシフトしてしまったのだな」ということと、「違う場所から訪れて消費することを『観光』というひとくくりにしている間は、産業としての可能性を見くびっているな」ということ.

 前者については、かつて製造系の産業も大きかった国であっても 環境資源を基にした観光業にしかなかなか他国からの財を得られなくなってきている数々の欧州諸国を思い浮かべれば、日本も間違うとなりえるというネガティブな感想.
 後者については、ひょんなことで会社で紹介された「経験経済」という本を読んでいて とても合った内容だったこと.そう、「観光」というものがサービス産業の枠を超えたとき、何をどうやって提供すべきかということに迫らないと、観光はリピートされないだろう.今の「ありのまま」の日本では、きっとリピートされない.自然が美しいのはわかるが、そこにリーチするのにはコストがかかる.コストを削除しただけでは、リピートされない.


 とにかく、近頃多くの場所で「自分で作り上げる」という感覚が薄れているように思う.なんというか、どこか「まあこれでいいか」的なのだ.まあこれでいいかで命も奪われないし、ご飯が食えなくなるわけでもない.それをいろいろな人は「危機感がない」などとかっこよくて遠い存在の言い方をするのだろうけれど、そういうのじゃなくて、もっと「注意深く見る」とか「納得がいくまでやる」とかそういう積み重ねの類の感覚の欠如だと思うのだ.

 ここ最近は、情報の流通とその透明化で 作ったものの原価を見抜かれやすい時代になったが、たぶんきっとこれからは 手を抜いたところが見抜かれる時代になると思う.原価が見抜かれやすい時代に直面して、様々な企業は二方向に進むことになった.原価を知った消費者からの圧力によって、より原価を抑えた安物を作る方向性.原価を知った消費者に、それがどれだけ高い原価であるかをアピールして高値で売り切った方向性.この時点で二つの方向性は思いっきり乖離しているが、次のフェーズではさらに「原価を抑えた企業」の何割かは、墓穴を掘ることになるだろう.手抜きをしていると事実は、どこかで機能的な襤褸が出る.とはいえ、全てを自社の手で作り上げている企業なんてほとんど存在しない.戦略的に「自分で作らない」という取り方をせず、ただ手抜きのために それを自分で作らなかった企業は 化けの皮が剥がれて、痛い目に遭うだろう.