人を活かすということと、限界の把握について

 私は周囲から、一見アグレッシブなように見られたりもするが、大部分そうでもなく かなり決めてかかって動かないことが多い.
 良いか悪いかわからないまま判断できずに動かないままいるということはほとんどなく、大抵 良いか悪いか自分の中で当たりを付けるというか、むしろ決めてかかっている.それは他者から見るととても醜いことかも知れないが、私にとってそこで良いと思うものにも悪いと思うものにも同じ行動をとることのほうが 醜いと考えており、間違っていたなら後から素早く修正するほうがよっぽど美しいと思ってしまっている.

 わからない ということをわかった瞬間に、わからないものという定義の上での扱いに変化する.いや、実際のところわからないものという定義に置かれるものの方が出会うものの大半であったりしている.つまりはほとんどのものを自分と同じ土壌には置いていない.ある意味戦いも挑まない.それはある意味尊敬の対象としているから戦わない.自分に合っていない(好きか嫌いかを含めて)ものは、自分よりもより合っている人にしてもらって、自分は手を出したくないのだ.

 人なんて、周囲にあるものの99パーセント以上は自らには理解し得ない不得意範囲であり、そこに追い付こうとするより自分の得意領域から相手の得意領域にどうやってうまく組み合うようにするか考える方が世の中のためだと思っている.パズルをプレイする時、全パーツが20ピースくらいしか無いものならば、一つ一つのピースを頭に全部記憶して組み立た方がいいかも知れないが、1000ピースを超えてしまうともはや全部覚えている余裕なんてほとんどなくて、色が赤っぽいかとか青っぽいかとかそういうもので把握するだけで 後はいかに組み合う部分の輪郭がマッチして行くかを試して行く作業に移ると思う.(いや中には本当に記憶力が天才的に良くて、全てにおいて記憶した方が速い人もいるだろうけれど、それはそれでまたその人特有の不可侵領域なのだと捉えている.99%の人にとってこれは得意でないことに当たるだろうと思う.)

 私は わからないものに対して、諦めるのではなく 分からないものとしての付き合い方があると思っている.自分が分かっておきたい存在については、死ぬ気で食らい付いて行く必要はあるだろうが、死ぬ気で食らい付きたいと思う機会なんて よっぽど思い入れのあるドメインか急に差し迫ったものがあるかくらいで、なかなかモチベーションはわかないものである.いや人間そこまで全部に全力投資なんてできるわけがなく、ある意味 自分で「分かつ」必要があると思っている.
 分からないものに対して、分かるまで粘るというのはある意味 執念である.執念は時には正しいが、大体の場合 正しくない.それは人間の限界を認めないということであり、また 人間が多様で深く変化するものであることも認めないことであると思う.どこが最端で、どこが最高点なのかなんて、自分の思い込みであり、他人の思い込み範囲はまたこれが違う.(いやこれもまた、本当に天才的に物事を深く考察できる人もいるわけだが、そんなのそれはそれでまたその人特有の不可侵領域なので、そういった特殊性はできるだけ「公」もしくは「窮地・局地的」なことに対して能力発揮することのほうが重要な気がしている.)

 諦めと割り切りは表裏一体で見間違ってしまうものではあるが、これもまた割り切りでしかない.そういう意味で私は、無知と付き合う「気」がある.そして無知に対して興味がある.
 しかしながら、わからないからと言って 端から諦めすぎるのも良くないし、諦めなさすぎるのも極端過ぎる.どっちもどっちであり、極端が良くないことは間違いない.極端では良くないのと同時に、自分なりの閾値を決める必要性も出てくる.まぁ多くは「時」と「場合」と「好き嫌い」のバランスによったりするわけだが、どこまで細かくみて、どこまでおおざっぱにみるかだ.


 さて、もう一度 分かるまで粘る行為を考え直してみる.分かることのほとんどが、「予測」である.本来表に出ているもの・自ら発信されているもの以上をわかる ということは一般的に、そのものごとの裏にある 妬みや悪意や見下しなどドロドロした思考や行動まで予測してしまうことだ.まあ所謂 弱みや限界というものは 人間が普段から気にしていたり様々な物語のテーマになっていたりするので、予測を助ける材料は多く、強ち外れなかったりする.がしかし、これも主観として考えれば どこまでいってもその「分かる」行為は、自分の思考限界を超えるものではなく、どこまでいっても正解を確信できるものではない.
 またその一方、人は神ではないために 弱い部分を予測してしまうとその瞬間に、関係全体を強弱で捉えすぎてしまうことが多い.本来はそれが「一部である」と認識すべきことでも、特に弱みや限界に関する 人がセンシティブな部分については、「思い込む」という重力に 気付かぬうちに引っ張られていることが多い.これもまた、自分の思考限界であるわけだが、自分の予測に過信しがちだからこそそう思ってしまうものである.つまり、分かる心が深過ぎると、協力ではなく 主従や依存関係に陥りやすい.
 踏み込むことは、責任を伴うということである.その責任量のバランスが偏れば、主従や依存関係になる.その関係が悪いわけではなく、家族や教育の関係性でいけば それが美である.しかし家族や教育でもそこがまた0:1ではないことが分かるように、どこかグラデーションを持っているのも事実である.
 踏み込まれるのは受け身であるが、踏み込まれる前に 突き出しておく、という選択肢もある.出すのは「自律的」である.パズルのピースで言えば、輪郭を形成する ということだ.右側だけ出すのもよし、下側だけ凹ませるもよし.


 私はあまり、一つ一つのピースを覚えるのが得意な方ではないので、漠然と色でカテゴライズして全体像を把握して行くやり方をとってしまう.その上、あまり自分の土壌に上げたがらないので、多くの場合別物として捉えている.(基本 ニッチ路線だと思い込んでいる.)しかし別物は別物であるが、それが好きか嫌いかはまた別議論であったりする.別物でも見ているだけで楽しいものもあれば、自分がプレーヤーでないと納得いかないものもある.
 なんだかんだ言っても世の平和は、己を知り、自分を発し、他を知り、各々を活かすことにあると思っている.予測の精度を上げることより、予測限界が存在することを把握して対応するほうが好きだ.私にはまだ会ったことが無い人や見たことの無い土地がある.