失われる情報、予測される情報

 そういえば昔、「帰納から演繹、演繹から推論」なんてことを考えたりしていたが、ますます推論側の要素がウェートを膨らませて行っているような気がする.あのころ(2005)は、その後世界のお金の動きが基本的に実態や本質からどんどん外れて、推論・推測・期待で動いていくだろうと予測していた.そのお陰で今年はいろいろなものが破綻しちゃったけどね. ただ、今後はその概念がもっと技術的なところでも実装しようと挑戦されていくだろう.

 どんなにインフラが太く、早くなっても、圧縮や間引きの技術は必要なはずである.今は皆、このままブロードバンドで、メモリ容量・価格が安くなって行けば Rawデータで流せるようになるから・・・なんて夢物語を描いているが、そう思わせているのは一瞬の人間の「怠惰」であり、ある意味WiiやDSが齎した 「そこまで高精細でなくても」「そこまで高度でなくても」いいんじゃないか という価値観がそうさせているだけである.WiiやDSが怠惰であるとは言い切れない側面もあるが、人間は欲があり、その欲望は 実現するたびにその先の精細さや高度さを求め続けることになる.事実はいくらデータで記述しようとしても足りない.それは、事実が未だ解明できないことだらけであるために、現実に近づくために必要なデータには際限がないのだ.現実として今後 更なる現実の細分化記録が進み、より人間がリアリティを求め続けるほどに データ容量は必要になっていくだろう.そのために引き続き、圧縮技術は必要になってくる.そして再現側ではより正確な 解凍技術、decodeを必要とされるようになるだろう.どこの企業も今は映像のアップコンバードに対してポジティブに処理技術で対応していこうとしているが、将来もっと大きな情報の捕捉・補填に対応する時代と向き合うことになる.

 そこで、予測技術である.「予測」と言っても、現在目に付く金融系の予測推論的な動きは、実態から離れたものになりがちだが、実際はもっと 現実に近づく方向の推論や予測の技術になるだろう.人間の真髄を追い求めたものが(心理や哲学といったもの)、一瞬胡散臭く見えるもののその本質をいかに忠実にどう表現するべきか悩んできたように、今後は技術的な人間のサポートとしてどこまで胡散臭くない表現をしながら近づけるかが「推測」のポイントになる.そしてその鍵は、もっと人間臭い試行錯誤と思考と失敗の先に隠されているはずである.