「分散と配置」の次

分散と配置

 「偏在への解決策を 経済成長による先進化」としていたことに矛盾が出てくることは、長期的視点でその齎す結論を足し上げていけば容易に想像がつく.そもそも無理がある.平均化など不可能だ.物事には所与の条件が存在し、同じ目標点に追いつくためにはそこに投入すべきエネルギー量は違って当たり前なのだ.
 そのために、分散と配置への志向が強まった.所与という事実を受け入れ、それをいかに配分するか.在るものを無いところへ.しかし、その時勢や流行によって、あるものの価値に偏りがあることは避けられない.だからこそ、全てにおいて同じ条件で同じような結果はいつまでたっても与えられない.しかし、偏りこそが平和であり、幸せだと気付ける時が来るのだろう.高低差について流動性で処理するよりも、それを固定させて維持させる仕組みづくりが必要になってくる.これは決して共産主義的なものではない.市場主義的なものでもないが.
 いろいろなところで繰り返して言っている気がするが、これからの時代の「配分」は、平等を目指すものではなく、「偏在を認める」ためにあると思う.

分断

 次に起こることは、「分断」をどう担保できる社会システムを作れるかどうかだろうと思う.分散と配置で偏在性を認めた次には、「再起」のためにいかに過去から分断させる仕組みを作れるかどうかが問題になるはずだ.
 世の中では、全てを記憶し その記憶を元に有効な配分をしようと働き続ける世界が今後30年間は続くはずで、その後半では 全ての記憶が邪魔になって再起できないことが問題になるだろう.「忘れてあげる」という人間的な欠陥こそが長所であり、それをどう機械的な判断に取り入れた仕組みを作れるかが鍵になるはずだ.