ノイズの入らないネットコミュニケーションの不自然

#操作ミスで長文を消してしまったので手短に
#というか W-ZERO3で更新って結構大変ね


10年ほど前のネットコミュニケーションと現在を比較して、大きく違いを感じる点がある.ネット上でのコミュニケーションそれ自体がPear to Pear(技術的な意味を指しているのではなく、形式的な意味で.というより、End to Endの語のほうがイメージに近いか)で完結することがほとんどになってしまったのではないか、ということだ.

10年前はといえば、ICQ/IRCは普及し始めていたものの、今ほどメインのコミュニケーションツールではなく、そのほとんどが公開されたウェブ上チャットスペースでのコミュニケーションだったと記憶している.(他にもダイレクトチャットやIPメッセンジャーなどあったが、個人のフリーソフトの域を抜けておらず、今のように大手が開発したソフトウェアでコミュニケーションをやり取りすることには小慣れてなかったように感ずる.)
誰にでも公開された場所であるために、「ネカマ」や「荒らし」という存在も現れ、「ネチケット」について延々と議論しなくてはならないチャットもあの当時かなりの数あったように思う.
比較して、今のリアルタイムネットコミュニケーションは MSN/Yahoo!/メッセンジャーGoogle TalkSkypeであり、集団での意見交換もMLというClosedな空間で事足りている.これは、技術的進化の恩恵であり、より人間の欲求に答えた形のコミュニケーションが可能になったと捉えて間違いないだろう.なぜなら、公開チャット・掲示板でのコミュニケーションも選択肢としては合ったにも拘らず、人はClosedにコミュニケーションできる環境を選ぶことが多くなっているからだ.歴史を辿って見ても、電話は公衆共有の電話から どんどんPersonalizeしており、今や一人一台の世界になってしまった.人はコミュニケーション自体「目的外」の人に漏れることを好まない、というのは誰もが想像に難くない.


ただ、この人間の欲求を満たしすぎた環境は そものもの不自然さを浮き彫りにしてしまうのではないか、と感じずに居られないのだ.10年前の発展途上であったネットコミュニケーションの方が、より現実に近いのではないか、と.

リアルコミュニケーションの上では、人と話をしようとすると ほとんどの場合は「目的外」の人に漏れる.周囲に存在していることで、否応無しに漏れているという状況が多くある.またそれを見越して「第三者」という立場に対しての配慮(というのは変な表現か)を含むため、慎重に成される.逆に「目的外」の人に漏れないようにする、というのはそれなりの手間がかかるものだ.

それらの慎重性や手間を省いてくれたのが、進化した上での今のネットコミュニケーションなのかもしれない.しかし、10年前 たくさんの参加者が悩み、悲しみ、ネットでの会話の在り方を検討して場を作りながら、コミュニケーションしていた状況を体験しているものとして、今のメッセンジャーコミュニケーションは いかにもコンビニエンスだと感じることは多い.


以前、私が大学時代にお世話になった方と仲間たちと、「中学生の携帯電話の使い方についてどう話合うべきか」というテーマに沿ってディスカッションした時、そのテーマとして上がった問題点が良い例であった.

中学生の携帯電話利用がもたらす大きな変化は、「良い情報」も「悪い情報」も一気に広がってしまうこと
(特に人の悪口・噂話が 教師など周囲の目に触れないままで時間をかけずに浸透することを可能とする)

だということだった.

正直この問題の根本は、「だったら持たせないでおくべき」ではない.携帯電話は一昔前では中学生にもたらせられていない電子機器であったが、今の時代・これからの時代では(価格的・慣習的に)当たり前のコミュニケーション・通信ツールであると捉えるべきであり、当たり前のツールで 問題が起きるのは、そのツールの問題ではなく そもそも「人間としてどういう行動をとりやすいか」「だけど間違っている行動は何か」を捉えることが重要だと考えていた.
もし携帯電話を使っていない状態としても「悪い情報を流す」という行動自体が問題なのであって、これ自体は「道徳」や普段のしつけの中で教育されているべき問題だろう.携帯電話だから問題なるのは スピードとClosedさ だけだ.ここで、携帯電話さえなければと言う発想をしては技術進化のメリットという新しい扉を閉ざすことになる.(確かに新規技術を 社会的マスである大人ではなく、判断の付かない子供から体験させるのか というのは違う議論だが、ここではこれだけ「普及したもの」だからこそ、子供が持ってもおかしく無い時代 として考えるべきフェーズだと捉えている.)


数年前、中学校か小学校の情報処理の授業で 教師が生徒のチャットの中に入り込んで「バカ」だのなんだと荒らすことによってネットのコミュニケーションを考えようだとかニュースに取り上げられていた.それも一つの体験学習だ、と言ってしまえばそうかもしれないが 多くの人が疑問を感じていたように これが最善策だとは思えない.
だからと言って、話は戻るものの 「目的外」の人間が絡まないコミュニケーションが一番だ、とも思えない.

結局のところルール作りなんて、法律や規則と同じで ある程度歴史と事例とその環境を知った人間が、論理的整合性と社会的汎用性を加味して作ってしまって、解かる人間だけ議論して改善していけばいいのかもしれない.
ただ、一番重要なのは「その方法が全てではない」と知っていることでは無いだろうか、と思うのだ.(ルールに従うことは機械でもできるが、それを改善できるのは人間だ.)


正直、Personalize化されて便利になったコミュニケーション方法が「(人間的な)完成形」で無いことは、誰の目にも明らかだろう.そのことに触れるチャンスの無い状況は不自然だ.もしかしたら非効率というのは必要悪なのかもしれない、もう少し昔のように公衆議論があってもいいのかもしれないな、と思う今日この頃.
SNSやblogの普及で、そういうチャンスが戻ってくる可能性は有るだろうか.