分不相応なものが齎すこと

#たまには娯楽から話を.

 夜、たまたま夕飯を食べて落ち着いたら21時過ぎだったので、映画のレイトショーが調度始まる頃だろうな、と思って徒歩15分ほどのところにあるシネコンへ足を運ぶ.この日のレイトショーで、21時半以降のものはハンニバル・ライジングとバベルしかなかったので遅ればせながらもBABELを鑑賞.
 始めから悲壮感漂い続ける雰囲気は、「HANA-BI」(北野武)を見た時のような感覚だったが、うーん 悪かないんだが、勢いのままのっぺりとしたストーリーで、ドラマの域を抜けてない感じ.なんというか、ちょっと芸術性に欠ける.と思ったら「21g」の監督だったのね.まだあっちのほうが、ストーリー自体を勢いで乗り切る感じだったので合ってたかな.役者の表現範囲が表に出てただけかな.随分前に見たのでだいぶ忘れてしまっているが.


 それはいいんですが、今回のBABELについては、別に 言葉を分けたなんて話より 私が気になったのは「異質なモノがやってくることで、バランスを崩す」という点.

 元はと言えば、そもそもの話の発端であった綿谷靖二郎が 銃を手に入れることの簡単ではない土地にそれをもたらしてしまったこと.本当は就労できない土地での生活が当たり前になり、本当は連れて行くべきでない場所に子供を連れ、帰るべきではない時間・ルートを使ってしまうアメリア・・・.他にも数々の「分不相応」的な行動が発端となって、定常状態が崩れていく.


 分不相応なものの提供、実はこれは随分前に一度思考したテーマである.きっかけは日本で使われなくなった家電製品の、発展途上国へのリサイクル輸出の話だった.


 日本で使われなくなったものを輸出すると、それがただ「型落ち」なだけでなく、少なからずそのものに先進国では既に代替技術のある「環境に有害なもの」「人体に危険なもの」が含まれていることがある.これを途上国に提供するという行動について、私には2つの考えで葛藤があった.

  • もっとダイレクトに、理想的な(有害でもなく、型落ちでもない)ものを提供するほうが、ためになるのではないか?
  • 型落ちでも少しくらい有害でも、それは先進国も辿った道.応急処置的でもいいからベースアップを目指すほうがためになるのではないか?

 その時の結論としては、前者が出来るなら理想だが、後者でも十分価値がある行動だと考えていた.しかし、どちらを取った時も ある程度のリスクに対する責任を取るシナリオが出来ていないと 危険だ.
 ステップを飛び越えた分不相応なものを提供すると、その環境のバランス壊すことが多々ある.進歩した環境・富める環境に居る人間は、そうでない側に対して「今出来ること」としての「情」によって、それを容易く提供してしまう.いつの日も、容易い意思決定は 容易く崩れてしまうということを肝に銘じたい.「今すぐできること」が、そのあと影響をどう与えるのか.


 まぁ、そんなBABEL自体のインパクトより、帰り道にカラオケの前から聞こえてきた 浜崎あゆみの「現実は裏切るもので判断さえ誤るからねそこにある価値はその目で・・・」のほうが含蓄があったがな.