構造の美学、感情のおせっかい

 ものごとを生み出す(何か新しく改善させる・工夫する)にも、二つあるように思う.Output先が構造な場合と、感情な場合である.
 なにぶん、「生み出す」という行為自体が どこか能力のオーバーシュートみたいなものを どこに配分するのか、吐き出すのか、ということに近いだけに、構造的結果を求めた場合に「美学(完成度・芸術性)」に近いものになるし、感情的結論を求めた場合にはそれが「おせっかい」に近いものになりそうだ*1

概念限定として

 構造的結論を求めるということは、とても硬く自己直接的な感じがして、俗に言えば「この完成度を上げる」とか「磨き上げる」という感覚に近い.そういう意味では、余力を投じているというよりも、才能をひねり出しているように思いがちだが、才能なんて 誰と比較してどこが秀でているとかそういうものも一種の自己陶酔というか、思い込みであるとすれば、どこに思い込むか自体が既に感覚の余剰である.
 また、感情的結論を求めるということは、とても社会的で抽象概念的で 俗に言えば「どこの誰がどんな気持ちであってほしいか」を漠然とした目的意識に持つことだろう.ここでのおせっかいは、同情的な意味ではない.
 ある意味、構造は論理的なことを必要とし、感情はエネルギー的であるイメージがある.
 どちらを目指そうにも両方を必要とする 双方絡み合ったものであることは間違いないが、例えば、構造のOutputを一義的にすれば、自分がそうしたいと思うのか、好きか嫌いかが一番の問題になり、感情の変化は結果論でしかなくなる.それが誰の感情であるかは関係なく.
 逆に、感情のOutputを一義的にすると 構造側は規定されないために、いくらでもプロセスに逃げ場があって 結果を掴むまでの試行錯誤に時間がかかる.その目指すゴールさえも具体的に見え難いものであったりするからだ.

方向性として

 えてして、現代日本人は前者への憧れが強い文化に傾きつつある気がする.一見それが、高度文化的で 近代的な嗜好であるように思えるが、芸術性というものも ある種の美学意識が一般論化してしまった時点で、とても画一的で資本主義的な「何らかの正解を目指す」世界に近付いてしまう.その美学と正解というジレンマが、それはまたモダンな葛藤を思わせるのだが、結局この思想はいつか落ち着くに至るだろうと思う.
 対して、おせっかいは 昭和的でダサい.しかし実はこれこそが余力・オーバーシュートをどこに配分すべきかという至極現代的で個人的で感情的な感覚と意思決定を伴う論点になりえる気がしている.ダサいものをスマートにするのではなく、ダサさをどう受け入れて どう出すか.これまた、美学に行き着きそうな 鶏と卵の関係にも見えてくるものだが、分かり難さを考えると「おせっかい」は美学よりも難しい.ゴールへのパラメータが一つではなくなるからだ.
 それでも構造の美学を求める思考が無駄だとは思わないが、美学が独り善がりに近くなってくるのを おせっかいが抑制しそうな感覚がある.

「完成しない帰結」が完成であり帰結

 正直なところ、効率性の観点から言っても、おせっかいは「美学」を凌駕できない.おせっかいは採点不能だ.美学は理屈が通る.
 だがしかし、美学の感性的側面を「善」とするのなら、採点不可能な感性でしか判断し得ないおせっかいはもっとも美学的な対象になってしまう.美学が美学たるために構成されるその「もろさ」は、完成度を求めることでは無いのではないか.余剰の自己投資は、保険のようなものである.鍛錬とか、引き締まった感覚とは離れている.人が不完全なものに温かみや安心感をどこかで感じ、求めてしまうように、実はこの不完全性の局地である 採点不可能でどう考えても理屈の通らない概念を問い続けることが、探求であり創出なのではないか.


 5年ほど前に、「今後は帰納でも演繹でもなく 仮説推論的な思考が一番の価値を持ちそうだ」と書いた気がするのだが、他者への偽善でもなく、自己満足的でもなく、余力という資源の有効利用と捉えれば、その位置付けや構造がとても似通っているように感じる.「冷静なおせっかい」という聊か不可思議な定義は、その不完全さという実に開拓可能性の大きな存在こそ本来の美学的存在なのではないだろうか.

*1:ここでの定義は「かえって迷惑」という悪意的意義は除き、「お世話する」の意義で捉えたい