余分をどう使うかがこれからの問題である

(前文として・・・)博愛か?

 半ば衝動的に書くが、ボランタリーは「愛」ではない.
 愛は根底であり、配分できるものではない.それはもっと、なにか属人的なものや距離感など とても主観的なものによるものだと思う.

提供すること、ということ

 本当に世の中で偏りを生むのは、物質ではない.物質的な偏りは、むしろチャンスを生み出す.前のエントリーで書いたように、偏りを急に解消しようとすることはあまり得策ではなく、その偏りを上手く使っていくことのほうが重要で、なにか機会や物資を直接援助・提供する時代はすぐに終わり、一番のキーは「変化をアラートする」ことになると思っている.

 先週の「ガイアの夜明け」で、ペットボトルの回収業の話が出ていた.最初はお金を払ってでも回収してもらっていたものが、今や中国の業者が高いお金を払ってでも買いたい対象が使用済みペットボトルになったと言う話.
 最初はNPO的に お金を払ってでも、高い壁を越えなくてはいけないフェーズがあることは間違いない.最初に何か新しいことをはじめるコストというのは、よっぽどタイミングとニーズが合致してなければ難しいものだから.(そしてその難しいものを成立させているのが、普通のビジネスなんだろうけど.) ただ、ペットボトルとか廃品回収について、正直普通に技術的にも機械的処理を考えた時に、明らかに最後は人件費に比例するというところまで予想できるのだから 近い将来何がボトルネックになるかと考えるところまで行き着かなかったのだろうか?新しいペットボトルを作り出すこと・再生綿を作ることは 機械的に自動で可能なのは見えている.一番リサイクルからのネックになっているのは、(今のところ)その分別だろう.いくら個人に分別を促しても、細かいノイズのように別のごみは入り込む.その一番ボトルネックになる部分を機械的に解消し得ない間は、それで中国の人海戦術に勝てないから税金で賄うって・・・それこそ、正当な仕事のチャンスを妨害している.
 何が重要に成るのか・・・、先を予想してそのための施策を打つためのその「考え」だ.考えるためには情報が必要だ.情報は自らもがくだけでなく、情報源の広さや速さという問題もある.結局 しばらくの将来は、情報の流動化で問題がカバーできる時代を経るだろう.

「余」の使い道という捉え方

 「利益追求と社会貢献」を天秤にかけたがるが、これはナンセンスだと思う.社会貢献は「付加価値」を生む限り必然的に付いて来るものである(もちろん「ズル」はできるので、天秤をかけるならば「ズル(利己心)と社会貢献」だろう).価値を「付加」して提供しているのだから.無理をして持続的貢献を目指しても、どこかで破綻する.「無理」は一時的に通用するものである.それが何かの「余力」であるからだ.大金持ちとか大資本というのが余力であるように、「若さ」も余力だ.
 余ったものをどうするかの判断基準は 愛というより、人としての好みでしかない.

所与の格差に対するスタンス

 特権やら地域やら時期やら、数え切れないくらい世の中には 格差や偏りがある.再チャレンジ不可能なくらい格差が広まってしまったとき、それは「進化・分化」になってしまうだろうから、「事前に食い止めるのか」「それが所与の結果であるとして 感情を含まずに受け入れるのか」それは、判断のし甲斐がある決断ではあるが、それは離れきってしまったときの結果論であるだろうから、仮説として離れ始めそうになったときに対するアプローチを考えてみる.そのときに蹴落としてでも もっと格差を作ってやろうと思うのは「悪意」であるとすれば、離れ始めたときにどう再起できるかを考えることを「良い問い」として捉えてみよう.
 格差が生じてしまうというのは、必然だと捉えたい.足りないこともあれば、余ることもあるのだ.それがぴったり思い通りいくなんて、計画経済的な社会主義でも不可能であることは 外部経済として多様性を認めてしまっている時点で明確である.だから「蓄え」とか「賃貸」とかが存在するんだろう.
 で、結局 エコだかエゴだか知らないが、「余」り をどうコントロールするかが問題になるのだ.

ニーズマッチングと情報先進余力

 蹴落とさないという判断のときに、何を目的にするかといったらそれは 正当な評価を得られるようにするしかないだろう.遡って、「対価(正当な評価)の得られる価値を提供する」とはどういうことなのだろうか.ニーズに合うものを提供するということではあるが、それうちの何割かは 半ば騙しているかのような見掛け倒しもあるだろうし、過大広告的なものもあるだろうし、見た目の賑やかさや雰囲気で売れてしまうというのもある.それも一つの価値として捉えるべきであるが、それだけが本質ではない.継続的に世にその価値を問うとすれば、それは何度ふるいをかけられても抜け落ちない価値を提供するということだ.
 例えば、「フェアトレード商品の服は、網目が乱雑で 細かい日本人は返品してくる」という問題.フェアトレードであるということに価値を置くだけならば、単にその価値で売れればいい.網目が乱雑でも売れるようにしたいなら、それでも買い入れてくれるところに合う価格で 日本以外で売ればいい.「日本人に売りたいから、細かく網目も揃える必要がある」そういう結論は、一面は正しい.それで職人に対するクオリティの目が厳しくなり、職人の能力が上がればそれはそれでいい刺激と成長機会の提供である.が、しかし.その結果、全自動・機械化に陥るというところまで予測すべきだ.日本では 製造者を人から機械に変化させることで その品質を維持し進化させて来た.本当に職人としての価値を活かしたいならば、「精巧さ・精密さ」を教育するのではなく、その土地やその人自身の「オリジナリティ」の発揮や、提供先への本当の「ニーズマッチング」を正確にさせる 将来性の情報と流通の機会のアラートを挙げ続けることが一番ボランタリーだ.
 機械化で雇用がどう変化するか知っている我々先進国は、その情報先進余力を使わなくてはいけない.蹴落とすのでもなく、短絡的に格差を「利用」するだけではなく、そのあと何が訪れるのかまで 分かる人に情報提供しておくべきだ.それが本当のフェアであり、貢献だろう.もはや 先進国とは物質的なものや環境的な有利ではなく、情報力の差で大きくそれを引き離すことが出来るのだから.