創出・消費・再生を自らの目で見届け、自らの財産で補うと言うこと

 高校時代の同級生で今は某J○で研究者をしているゆうちんに誘われて、東工大サイエンスカフェに土曜の夕方行ってきました.

 まず 入店して1ドリンクオーダー.その時にmy試験管を受け取ります(後でお土産として持ち帰りました).5-6人のグループに分かれて座り、そこでまず過冷却実験として 日本酒の過冷却を・・・全テーブル失敗w.そしてパワポ過冷却の説明があり、参加者全員で立って動いて 水分子の温度に対する動きを体で表現!その後休憩を挟んで、過冷却の理論のパワポでの説明を聞き、産総研の平野教授の過冷却がエコに使われる研究の紹介を聞きました.そして最後にもう一度 水で過冷却実験! 一緒に行っていたゆうちんは成功してました.さすが普段から試験管を使っている研究者ですね.
 終始、大人が楽しむやさしく知的な交流会の雰囲気が漂っており、ちゃんとお金を払いたい・寄付したい!と思える会となっていました.


 私が特に印象に残ったのは、産総研の平野教授の発表中での 最後のまとめあたりに「エネルギーも過去は一括で生産するのが良しとされていたが、必要なところで必要なだけ効率的な方法で生産する、分散エネルギー社会」と言うようなことが書かれていたこと.

 一括で生産するのは、以前は無駄が少ないと言われていた.しかし、至るところでエネルギーのロスが起こっていることを踏まえると(つまり、ロスを限りなく抑えるだけの技術力が出来上がった現代においては)、そのロスや 過冷却のように自然に起こる現象・無駄をうまく使うことでの うまいエネルギーの作り方・使い方もできる.やり方によってはどちらが本当の意味で、無駄が少ないのか・効率的なのかは はっきり言えるものではないかもしれない.
 しかし私は、バルクで処理するような社会よりも やはり個々別に最適化するようなやり方が重要だと思っている.なぜなら、自己で生産から消費、ひいては再生まで目を通して、尚且つ自分の資金で面倒を見る という限りにおいて、自分のコントロール範囲以上にイイカゲンになることを抑制することができるはずだからだ.古き良き日本でよく言われる、決して派手さではない美意識などがこれに当てはまる.
 もちろん、いざと言うときの大きな一歩・賭けは 何事においても重要であり、それこそが大きな変化へのきっかけとなることは間違いない.しかし、バルクで生産したりして、自分のコントロール範囲以上のところに行ってしまった瞬間、自己責任の意思から離れ「自分のことじゃないから別にいいや」と言い出す人間が出始めるような文化を一般化してしまうと それはとても無責任さ溢れる世界を作ってしまうだろう.

 この話は エネルギーだけでなく、情報の偏在や才能の偏在にも同じことが言えると思っているけれどね.