物価とリテラシの変化をどのように受け止めるか

 先週、数ヶ月に1回の恒例になっている会社の(一度も一緒に仕事をしたことのない)仲間(先輩)との飲み会(というより ほぼディスカッション)に行ってきた(カッコだらけだな・・・).その中で話題になったことの一つを掘り下げて考えてみようと思う.*1


 リテラシ、特に技術的なことに対するユーザのリテラシが過去から未来にかけて、上昇していくのは常識的なことだと思う.もはや右向きの三角形の印を見て「再生」であることが分からない人は、先進国の中ではほとんど居ないだろうし、その意味が何らかのコンテンツを聞く・見れるような状態に動かす作用をもたらす事であることも、たいていの人が常識的に知っている.
 もっと特殊なケースを考えてみれば、Gmailを使っていて 時々間違ってまともなメールが迷惑フォルダに転がり込んでしまうということを分かっている人たちは、時々迷惑フォルダを覗きに行ったりする.これも一つのリテラシで、「それがしょうがないことである」と認識した上での行動である.確かにGmailを使う人なんて、60を超えたおじいさんがマジョリティになるわけもなく、リテラシの無い人間のほうが先に死んでいってしまって、年々その対象が減ってくると割り切ってしまえば、それはそれで終わりだ.

 しかし、これを冷静に考えてみると、ただ自分はメールを見たいだけなのにも関わらず、余計な作業を一つ強いられることによって、安全・完全性を担保していることになる.



 「おせっかいをやく」べきか、これを「リテラシとみなして省く」べきか.どちらが人間にとって幸せなんだろう?


 結論から言えば、対象物のターゲットセグメントに合わせてその境界を決めるべし なんだろう.
 物価が変化しているように、リテラシも変化している.「30年前には10円だった卵が、今は100円なんて高すぎる!」なんて文句を言ってもしょうがないのだ.

 ただ、必要とされるリテラシをどの程度のものにするかなんて、それは提供する側の 意志一つであり、それが生み出すものの世界観なのだろう.どんなに物価が変化しようとも「これは、この値段で提供したい!」と調整するのも提供側の思想だから.
 また、おせっかいは「おもてなし」にも変化するものであるので、それは 提供する側のうまいストーリー(それだけのCostに見合うBenefitを得られるかも含めて)を組み立てなくてはいけないだろう.


 それが「リテラシだ」「個人責任だ」と 責任転嫁しても文句を言われないほど、情報量が増えている時代だからこそ、自ら妥協の無く「境界線」を定めておくことは必要だと思う.

*1:社内側でエントリーするか、こちらにするかで悩むが、正直社内よりもこっちに書くべきだろう と思ってしまうのは、リテラシ(文化)の変化の一つだと思いながら書いている.私の意志として、ガイドラインのこちら側にあるもの、という考え.