技術は制限をかけるものではない


 Technologyはある程度の長い間「制限を開放する」ことに向かう.しかし、その制限からの開放がいつの間にか、「無制限であること」を問題として、「ブレーキとしてのTechnology」を使い始める時がある.大抵の場合それは間違っている.それは、一方向の問題しか見つめていないゆえに取られる対策であり、本質的な解を求めるTechnologyの使い方ではない.ブレーキを掛けざる得ない と判断するとき、それは「行き過ぎた」と捉えるよりも、「他の制限がある」と捉え直せない時に、イノベーションのジレンマと似たような現象が起こるのだろう.

 例えば、それが顕著なのが「著作権(Copylightの方が概念に近い)」という存在だろう.私は著作権・知的財産の専門ではないが、それらを隣で見つめるべくして「価格・対価」というものに注目して過ごしてきた.それらを冷静にバランスして見たとき、「Copy・複製は悪である」という考え方に縛られすぎていることに気付くだろう.Copyは、Copyこそはデジタル化が齎した最大の技術的貢献である と捉えたらどうだろうか?皆が欲しいものを出来るだけ安い価格で 皆が手に入れられるようになる、そんな世界を誰もが望んでいたのではないだろうか.本来は、その自由の先に有る可能性を考えてこそ、「創造」であるはずだ.
 Copy自体が悪いことではなく、そこで著作権者に対価が発生しないことが悪である という捉え方も、している人はしている.結局のところ 得た者の価値に対するフィードバックが無いことが問題だと言っている.これは大きな問題であり、新たなパラメータであるからこそ混乱するが、それが本質ではない.フィードバックが無いこと、それをするツール・ルールが無いことは確かに問題であり、制限で有るが、実は有る無しの前に「誰に・どこにフィードバックしていいのか」道が無い、むしろ道が分からないことも 大きなパラメータである.

 実はこの問題の本質は、インフラ環境や知識蓄積・リテラシーの問題だけではなく、個人に「意志が有るか」というところに大きく委ねられている.


 世の中がよりフラットで、そして皆が望むような状態を実現するとき、問題となるのは「意思」である.自分自身の利己心のために全てを捧げるのか、何が正しいとして自分がどこに向かって行動するのか、全て自由意志に委ねられる.誰も殺さない、誰も環境要因で死なない方向へ向かっている時代に、結局のところ 人が一番悩むのが「自らは何を大切だと考えているのか」ということである.自分自身を知り、自分の価値観に自信を持てなくなることが、一番の暮らし難さを導く時代となるだろう.自分自身を知るとは、それ以外との差異を理解することである.理解とは、比較して妬むことではない.奪うことでもない.理解とは 自分の居る位置と役割(貢献)を知る ということである.
 そしてまた、内なる咀嚼である「理解」だけでなく、発信しての「意思」は それ以上の影響と効果を齎すだろう.発することで、自分以外の「理解を助ける」、そういった貢献という行動が 無意識のうちに行われるうち、これまた 制限に対する勘違いで、ブレーキ(保身)を掛け始める人々の割合は多いだろう.発信したものの 効果が横取りされるとき、保身として 発信をやめるのではなく、発信した瞬間に「公共と同等である」という意識とともに、どこに価値が還元されるべきか 受け手がその意思(良心)で行動できる社会こそ、理想であり そのベクトルに向かうべく 世の中は進化していくだろう.