(続)種類を散らして、レベルを同じく

 賛否両論であった、4月のエントリーだが、何も私は「結局 手を繋いで徒競走」が 大企業のやり方だとは言っていない.確かに、一人の秀でた人間を優先させるなんてことは 大企業では出来ない気がする.かなり難しい.だが、違う分野でそこそこレベルの高い人間を集めると、「お互いにお互いの良さを 解らないながらに 尊重しだす」これが 種類を散らして、レベルを同じく だと思うわけだ.この表現は、人が100人以上存在する組織にいる人間には良くわかる感覚だが、50人以下の組織にいるとピンとこない話だと思う.この微妙な100人以上(これ以上になったら1000人だが、1万人だが 違う話の悩みになる)と、50人以下もしくはその程度とは全く違う感覚を生む、と私は 自分の経験(自分で作ったもの・所属しているもの)と父親の会社の状況とを考えて思うわけだ.

 しかし、そうは思っても 50人以下のスピード(というより「恣意」なのだが)と比較すれば、やっぱり劣る部分が出てくるのが 「レベルを同じく」の話だ.有る程度レベルが高い人間が揃うと、下手な争いをせずに解決と理解を求める.そうすると、リテラシーの差で どこが劣っているかによって、あまりにも高いコストを支払う必要が出てくる.

 結局のところ、「理解が出来るまで待つ」という作業が出てくるのだ.待つ時間を短くしようとすれば、それは説明に使うエネルギーを多く使う ということである.積分したら多くは変わらない.結局、本来は一緒に付いて来てくれるか、途中からでもキャッチアップする自助努力を持つ人間としか スピード×エネルギーの積を縮めることなんてできないのだ.結局 遅れた者が、「遅れた」という 自己意識を持つしかないわけだ.
 「知らないんだから、説明しろよ」という態度を持っている限り、結局 スピードとエネルギーの積は かなりのコストロスを生じさせている.それが 重なれば重なるほど、どんどん悪化する.

 いわゆる、リテラシー とか、センスだとか、時流に乗っている だとかいう表現になるかもしれないが、新しい局面を作る というミッションを与えられている場所にいる限り、遅れている自分が 最先端の位置までキャッチアップすることに 他人を巻き込んではいけないのだ.


 とにかく、平等主義というやつは リテラシーの差というものを 個人で埋めるものではなく、自分が失われていた権利 として訴えることが多すぎる.