ソーシャルゲームの功罪

昨今、話題の絶えないソーシャルゲーム業界であるが、話題の中心となっているのは

  1. RMT・ガチャ問題
  2. パクリゲーム問題
  3. i-mode化への心配

といったところだろうか.


最終的に3つとも共通した問題意識を持っているが、わかりやすい3番目について先に言及したい.
ここは前回のエントリーに通じるものだが、このNikkei TRENDYの記事にコメントしながら言及したいと思う.

i-modeが本家本元だなんて傲慢

ソーシャル・ゲームで繰り返してはならないi-modeの失敗
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20120411/1040425/?P=2

i-modeが「世間から妬まれていなければ成功していた」なんて思えない.思えなくなった.
「先にあったのに」なんていう発想は言い訳でしかない と最近強く思う.


私もまだ、前の会社にいた時にはそういう発想があった.
惜しいな、もっと何とかしてれば・・・なんて思っていた.
だが、大きくなったビジネスと、違う文化に広げられないビジネスは明確に差があると感じている.


前にいた会社は、世界的に成功していた会社だった.
今いる会社は、世界に繰り出そうとしている最中の会社だ.
全社が成功した理由は「日本らしさ」を出したからではなく、大部分は「世界に受け入れられる尺度」を持って商品化していた.
「日本らしさはすごい、ANIME・MANGA万歳!Game万歳!」なんて言っている人が結構いるが、それがどんなにニッチなすごさなのか ちゃんと意識したほうが良いと思う.
どんなにアニメがすごくても、どんなにSUSHIがおいしくても、テレビやカメラみたいに国境を越えた一般的な存在にはできていない.



全てのビジネスは それが一般的に認知されているいないに関わらず、何らかのニーズがあるものしか存続できない.
根本的に大きなビジネスになるようなものは、多くの人たちが似たようなところで試行錯誤している.
(ほとんどの「発展」というものが、あるものの積み重ねや組み合わせでできているから、突き詰めれば自ずと同じようなところに行き着いたりする)
更に言えば、その他人の試行錯誤を横目で見て、トレンドを窺っている.


iTunesは、“本家本元”が「ただやった」ことに 社会的意義というビジネスのアクセルを踏ませる要素を包含していた.
残念ながら、昨今の日本人は 複数のパラメータをバランスさせて成立する解を持ってビジネスに取り組んでいる人が少ないように思う.
「複数のパラメータをバランスさせて成立する解」とは、ある意味「正解」ではなく、ほとんどの軸で「5-8割正解、2-5割不正解」のものだ.
前職でもこれでよくいろんな人とケンカした.
「そんなの正しいと思えないから採用できない」
確かに、一つの側面では正しいと思えない.だが、10個くらいの達成すべき目標を置いたときに、それが効果的であることもあったりする.
なんだか最近の若い頭のいい人たちは、100%の正解を求めるがゆえに バランスを失っているように思う.


ともかく、足を引っ張るところを辞めないと世界に通用しなくなるのではなく、「世界に通用しない理由がある」ということを意識すべき時期にあると思う.
確かに“もう日本にはそんな余裕はない”とは思うから.
もう一言添えると、日本に余裕があろうがなかろうが、月日は流れていく.
日本人がどの立場で生きたいか、それだけだ.


ガチャ・パクリ問題

本題に戻って、ソーシャルゲーム業界で騒がれている RMT(ガチャ)、パクリ問題について言及したい.
それぞれ多くの場所で言及されているが、それぞれの内容に関する議論は多くの論者に任せるとして、私はこの二つ(もしくは先のi-mode化を含めた三つ)の共通性について考えたいと思う.


まずは簡単に整頓しておく.

  • RMTについては、そのガチャ(を極端な具体例とした)射幸心を煽る「まぐれ当たりで利益が得られること」を一般化すること.
  • ゲームのパクリによって、ゲーム開発者のCreativityを潰すということ.(これは正直、どこまでを権利化すべきものか、パターンとして一般的なものかで どこまで保証するかは議論の余地はあると思うが、実際ZyngaがUSで 小さなDeveloperのゲームをパクって利益を掻っ攫うことで総スカン食らっているという現実を考えると、クリエイターのCreativityをどう守るかという議論になってくるだろう)


両方とも、端的に言えば「社会悪」なわけだ.


産業の成長は「戦争」や「賭博」「風俗」的な欲求無くしては成立しない と言えるくらい、過去の歴史が語ってくれるだろう.
今のこの状況を後で振り返れば、一過性の現象としてと置くべくして通った道だったと認識されるのかもしれない.


ただ、産業の成長は社会悪的な欲求だけでなく、先に書いたように何らかの人間の根源的な欲に関わるものだ.
今回の場合注目すべきは、「Virtual goodsへの価値を一般化した」ことだと思う.
誰が10年前に、ケータイの画面に現れる小さな画像に 何万円もの価値を見出しただろうか?
iTunes以前には、音楽CDでさえも「ジャケットが無ければ売れない」なんて言われていた.
それがiTunesのおかげで、物理的なジャケットから解放されたわけだが、ソーシャルゲームではそれ以上の進化を感じさせる.
ある意味のテクノロジーの進化に、人間の価値観が付いてきたように思うのだ.
素晴らしい1つのStepだと思う.物欲、唯物論的な思想を否定するわけではないが、選択肢を広げることは正しい進化だと考えている.


このエントリーのタイトルである「ソーシャルゲームの功罪」のうちの「功」こそが、この点だと考えている.
ただ、まだこの業界が「功」とさせられるかは定かではない.
その理由は、次に言及する「罪」の部分にある.
ただ、この分野ができようができまいが、きっとほかの分野が近い時期に「功」として成立させるだろう.


何が足りないのか?

「罪」の部分の話をしよう.
先に書いた「社会悪」的な要素に対して、どのように対応するか、だ.


ソーシャルゲーム業界が残念だと思うのは、「社会悪」に対し「パッチを充てる」行動しかしていないことだ.
多くの企業は「規制をどう回避するか」で四苦八苦している.
しかし、今はまさに、この産業の位置付けがどうなるか決まるときだ.
こんなフェーズで、回避する思考しかできないとしたら、この先の発展は危ういだろう.
きっと、今後も様々なタイミングで 自己否定を迫られる機会があるだろうから.


この瞬間に これらの社会悪に対して、自らがどのようなスタンスをとるのか、自らの生み出すものをどうしていきたいのかの位置付けをはっきりさせないことには、産業は名実ともに社会に認められることはなく、大きくなれないはずだ.
ここが、社会悪が社会悪として規制の中で興行するのか、社会に意義のある産業として発展できるのかの岐路になると思う.


社会に与えた「功」の部分を真摯に見つめ、「罪」をどう克服するのか、もっと検討するべき時期にあると思う.


冒頭の3つとも共通したものがあると書いた理由は、上記の「罪」についても 米国ではもっと厳しく意識される問題だと捉えられるからだ.
射幸心・賭博的なものについても、その社会的な価値の意味で、国外に勝負に出るならば、日本よりもしっかり位置付けられることを意識したほうがいいだろう.
また、Zyngaのパクリ問題への反響を見てもわかるように、資金力の乏しい企業から生まれるクリエイティビティをどう位置付け、それらとどう付き合っていくかは、必ず意識すべき課題だ.
iTunesは、レコード会社と「物的CD」とアーティストとマイクロペイメントという 政治まみれ・強弱のはっきりした世界を ある意味の正義で開拓したわけだ.
ものごとを興すときの社会的意義に自問自答できない企業は滅びると思う.