複製技術がもたらした劣化とは

 久しぶりに、「コピーとは何か」について考えてみたいと思いながら1週間が過ぎていた.日々過ごしているこの世界は、複製に取り囲まれた社会であり、それなしでは日々の生活の大部分がなくなってしまうのではないかと思うほどだ.
 昔買ったが、そのときに自分の価値意識とはズレていて読飛ばしていた本を読み直すことにした.(複製技術時代の芸術

 そもそもこの本を読む前の私の問題意識は、「物事はコピーされた瞬間に、違う価値のものとして存在していくのだろう」「どこにどれだけオリジナル価値を置き、新しい価値をどのくらい評価すればいいのか」というものだった.
 しかしこの本を読むことによって、私の中の結論がはっきりとした.コピーによる「劣化」は存在する.ただ、その劣化とは コピーされたもの自体の劣化ではなく、受け取る側の「劣化」だと言うことだ.技術は、オリジナルのもの自体の劣化を抑えるために発展しようとしているが、コピー技術が生まれてから何が変化したかを敏感にそして冷静に読み解くことをしなければ、本当の意味の劣化が抑えられない.技術に与えられた希望と、その副作用をシンプルに見つめながら この本と私の議論を書き留めたいと思う.


 Walter Benjaminは、「コピーしたくなる」心を自然なものと捉えている.ここの部分は私も大いに同意しており、3年前にも「コピーはデジタル化がもたらした技術的貢献だ」と言及した.
 Benjaminは、模造ではなく「再生産」としての現象で 次の二つをその特徴としてあげている.

  • 自然の知覚では見落としてしまうような影像を定着させる
  • オリジナルそのものでは考えられない状況の中に置くことができる

それらはアウラ(どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象)が失われる中で成立している、と.
 そしてBenjaminは、現在の知覚の特徴として「平等に対する感覚が発達」したために、コピーが求められていることを示唆している.この一言が、私の中で「求められる新たな発展としてのコピー」と、「その副作用」について考えさせられることになった起点だった.


 先の、「自然の知覚では見落とすようなものも認識できるようになる」という良い点、そして「オリジナルでは届かない場所・機会に提供できる」という良い点、この二つが何をもたらしたか.本来それらは、今までよりもずっと 物事への咀嚼・吟味をしやすくする手伝いをしてくれる発展であるはずだ.
 だが実際、人々の暮らしは逆行した.彼が書いた1936年の当時でも、絵画から映画になったときにそれが起こったと明示している訳だが、それから半世紀以上たった今、誰がそこにブレーキをかけられただろうか?

  • 絵画・・・作品の中に自分が入り込んでいく
  • 映画・・・自分の内部へ作品を沈潜させる

 移り変わりが激しく情報量の多いこの現代では、一つの物事に没頭し、入り込み、そこから連想して、自分の中で咀嚼する機会を失っている.時間や場所を超えて“平等に”物事を手に入れることになった我々は、そのことへの更なるエゴを通して、失っているものがあることに気付かない.
 よく、TVはパッシブなエンターテインメントだと評されるが、本当にその定義でよかったのだろうか.

 咀嚼をする事自体が、再生産である.自身の中で新たな価値を生む.二次消費・二次生産の本来の意味はここにあるはずだ.「同じものが欲しい」ことが目的ではなく、同じものを咀嚼したときに自分はどういうもの(感情)を生み出すのか、だろう.


 物事は元来、「媒介」であり「きっかけ」だ.咀嚼されるたびに、別の価値として生きる.その別の価値を忘れ、忙しさに通り過ぎ、コピーを受け入れるだけになってしまったとき、それがオリジナルからの劣化だ.しかし、ここに注目し、支えることができれば、更なる発展がもたらされるのだろうと思う.


↓本の要約・メモ(右下は、私の一人ブレスト領域なので隠すw)