自由選択を正義とする限界

今一度、現代社会における自由主義について、一般化することによる偽善的美徳について考えてみたい.


絶対的な正義はやはり、モラルとか倫理とかそういうものに存在していて、自由選択は一つの条件でしかないと感じている.自由な選択は、多様な選択肢を認知し、広い視野の元で判断できるものであれば機能する.しかし多くの人の多くの場合は、むしろ視野狭窄にされた状態で判断させられるものだらけだ.
特に、日本での「格差」と言われるものが、この「自由選択」「個性・多様性の尊重」という言葉によって助長されているのではないか?*1


そしてまた、この「自由選択」「個性・多様性の尊重」という言葉によって、多くの裕福層・知識階層が思考停止に陥っているように感じる.目の前の、一瞬、直感では「社会欠陥」と思われる事象について、「特別な事情がある」という例外処理に追いやることによって、課題抽出を行わず、「受け入れる」ことを美徳として処理する.そして、その社会欠陥の中にある「美しき事象」に目を向けることで、過剰な美化をする.私には、それは自らが「臭いものに蓋をした」ことについて、責任の範疇が元々無かったかのように振る舞っているように見える.


近代社会のほとんどの場合に、完全な「自由選択」は存在しない.
従来問題になっていた「自由」というのは、もっと根源的な部分で失われていたものからの解放を指すものであって、それ以上の「恵まれた中で」の自由選択なんて桃源郷の世界の話であり、それは「向上欲求」に依るものでしかない.
ある程度の保証がある豊かな選択には多くの場合、自由選択を勝ち取るために「知識」や「熟考」や「助言」が必要になってくる.それの必要性を知らずして判断させられることはもはや「自由選択」ではない.


結局のところ、「ありのままの選択・それを尊重している」から、「この判断を不幸・欠陥だとは思わない」という判断は、社会的欠陥・課題を棚上げしているだけだ.本来は、モラル・倫理・論理を持って自らが判断すべきだが、完璧な判断は難しいものであり、「知識」や「熟考」や「助言」による学習ガイドラインが必要になる.時にはルールが必要で、その用意されるべきルールは形骸化したものではなく、モラル・倫理だとか論理だとかで導かれるものと比較して納得できるものであるべきだ.



どうなることが正義で、そのための課題解決がどうなのかも語らずに、今を受け入れることを正義とするのは責任逃れだろう.そもそも、自分の責任で無いと思っていること自体が、まずい.それは個性や多様性を認めるでも何でも無く、自分さえ良ければいいと思っていることの表れではないか?綺麗な言葉を使って、ヒトゴトとして物事を扱い過ぎなのではないだろうか?世の中にはいつでも欠陥や課題が生じているし、いつだって改善が必要とされている.

*1:いわゆるDQNと呼ばれている人たちが、DQNになりたくてそう振る舞っていると言うより、それ以外のやり方を知らないばかりにDQNになってると感じたことは無いか?