今の若者*1に圧倒的に足りないのは「論理力」

 ビッグウェーブに乗らずに もちろん昨日もせっせと仕事していましたが、例の切込隊長とイケダハヤトのイベントのログを読ませていただきました.このリンク先のメモ、とても良かった.


 簡単に言えば、今の若者(たぶん、今35歳より下くらいから顕著になっている感覚がある)は、あらゆる面での「論理」に対して注意が希薄なのが、議論が噛み合ない理由だ.いい例なので、上げるとすれば、

 (略)
隊長>社会的責任を要求されるのは自分の声が届きだしたら必ず発生する.
 (略)
イケダ氏>自由に責任は伴う.(略)
     NPOの支援もしている.今日のイベントが寄付につながる.
     自分が自由であるための社会的責任.それで僕が自由になる.


 ※略しすぎなので、本文読んでくらはい.あ、Togetterとかも一緒に読んで視点多めに見てくださいませ.

ここの部分.「社会的責任」というものについて「自由によるアクションで引き起こすことへの責任」ではなく、若い方は、「自由で得たこと(お金とか)を どこか別の恵まれないところに還元すること」と思っているわけだ.


 一度司会が「個人の情報発信の統制問題」と「発信者の責任」については、話を分けるように促しているが、残念ながらそれはあまり効果が出ていないし、聞いててあとでTweetしてる人たちもそこを重要だとは思っていない人が多そうだ.
 話の流れに出てくるように若い人の方は、そういった体験が無いために「そんなことよりも若人にとって問題な前者について」ばかり気になっているんだと思う.しかし、「聞く耳持てよ」という一言で終わらしてはいけない問題を孕んでいるんだよ、この話は.

最近の35歳以下の日本人によくある傾向

  • 論理関係が飛躍していても気付かない(ただし、論理的に正しい話を聞いたときは ふんふんと素直に聞き、むしろ絶賛したりする)
  • 会話・文章の流れは、「関係する言葉」が入ったものをひっぱってきて列挙する(構成とか、ものごととものごとの論理関係は気にしない)
  • 批判・絶賛は、「キーワード」「言葉尻」に対するもの(文脈とか、理由とかほとんど関係無しで、世間一般的に「悪い」と言われている言葉が入っていると「悪いこと」という主張になる)

 まずね、blogとかで炎上すること・叩かれることが、なんで引き起こされているのか解ってない.解ってないっていうか、解ろうとも思わないし、「意味なく」起こるもんだと思っている.若い方が言っているが(引用しないが)、世の中にはたくさんの多様な人が居て、個人が主張をすれば 誰かの意見とぶつかるものだと思い込んでいる.


 この現象だが、この世代が置かれている環境から経験的に出来上がったものだと思う.私たちは幼い頃から「オトナたちが物事に対して批判するとき、理由をうやむやに隠したり、ロジックをねじ曲げることで、本音をストレートに言わないようにして表現する」のを見てきている.そのため、聞いたままだと そもそもロジックが解らない・意味不明な論理になっている話に囲まれて過ごしてきている.
 一方、学校ではそんなこと教えないわけだ.1+1=2と教えられているのに、教科書を離れるとオトナたちは「表面的には」ロジックがおかしいことを平気で言ってるわけだ.


 ここらへんに矛盾を感じながら、少年時代を送ったり、社会人になったりした人たちが多いんだろうと思う.
 確かに、社会人として一度どっぷり浸かってしまえば、その裏に何がなされているか、「痛い目に遭うことで、自ら咀嚼」し、次からは文脈を予想・推論できるようになる.しかし、これもまた残念なことに、今の我々の世代は「痛い目に遭う」ことを回避できるチャンスが増えている.スキルさえあればできる、しかも自分より年上にはできない仕事、というものが確実に存在しているからだ.オトナの側も、自分が出来ない内容への気後れもあるのかもしれないが、若者に「痛い目に遭わせる」ことを避けている.


 そんなこんなで、我々の世代は なんらか否定されたり、叱責されても、そのロジックを辿ることはしない.これまで、そこで論理を紐解こうとしても、知りたい情報が用意されて無い話をたくさん聞いてきたから、そもそも無いものだと思っている.叱られても、意味不明なことで叩かれている、ただ叱られていると思っている.
 従って我々の世代は、様々な実社会面において、「何があったから」→「これが起こっている」という考え方に注意を向けない.

論理力が無いことがもたらす社会的思考の方向性

 ちなみに、「文脈読み取れるまで、痛い目に遭ってこい」とか「これだからゆとりは┓( ̄3 ̄)┏」とかは言うつもりは無い.むしろ、こんな回りくどいルールなんて撤廃してくれ、と思う.気遣いを大切にしなきゃ? もっとストレートな会話でも、人への気遣いくらい成立するわ!


 で、この問題をもう少し広げて解釈して、この現象のおかげで何が起きているのか、今後何が起こるのかを考えたいと思う.


 論理を重んじない思考をする人が多くなることで、(前回のエントリに繋がるが)多様性という言葉でたくさん課題から逃げることが出来るようになる.
 そう、
「1+1=2ではないことが有り得る」
とか
「1と1が大事なのであって、それが合わさって2である必要は無い.それが10ならもっといいじゃないか!」
とか、そういう話が何よりも重要になってくる.なぜかだんだん、前提の1+1=2が重要で無くなってくる.
「あーそれ、数学の中の話でしょ?そんなお固い(古い)考え、どこでも通用すると思ってんの?」
とか言われるようになる.
 更に、
「1+1が2にならないんなら、1+1なんて面倒なことしないで、最初から2をやればいいじゃん? やり方はそれぞれじゃね? 俺は俺でその道を目指してる」
「そうだね!2を得ることが大事なんだからね!話聞いて、勇気出たゎー」
みたいなことを言い出す人間が出てくる.


 怖いんですよ、前提や論理の無いままで物事を進ませてもいいってことが「新しい論理」になりつつあるから.


 この2−30年の便利とか効率化とかそういうものの影で、何かが失われてしまったんではないか? 論理を省略している間に、論理が無くても物事が動くと学んでしまったのではないだろうか.



<おわりに>

 Twitterとか見てると、「隊長の独壇場で、若い人は喋れてなかった」みたいな書き込みが多かったが、このログを見る限り、逆だろと思う.隊長の主張してることは結局伝わらず(相手にも、聴衆にも)、若い人の「もっと主張しようぜ」「叩かれたって気にするな*1」的な話が着地点になっていたという意味では.


 35歳以下の若者て、自分棚上げ乙って言われそうだが、ここまで書くのは 比較的同世代よりも論理を重視している頻度が高いと自分で思っているからだということを断っておく.日本語も苦手なので、テキトーな語彙を使っちゃってることも多いが・・・.
 ちなみに、回りくどい論理の飛んだ叱責も腐るほど受けてきた(2ヶ月くらい解んないままで、浮きまくってハチャメチャなサラリーマンデビューをした).
 むしろ私は、誰がこんな世代に育て上げたんだと怒りを感じることも多い.話してても面白くない日本人の若者多いから.

*1:誰か、その裏に何があるのか本当はもっと気にしろ、と言ってやってくれ