臆病であるということ

自分は、かなりストレートに人に意見をぶつけるし、人から言われたことも比較的単純に受け止めてショックを受けたりなんかする単純な思考の人間だと長年思ってきている.

第二印象くらいでいろんな人に、
「強引、豪快ですね」とか
「分からず屋」だとか
「ワガママだ」とか
そういう反応をされることが多い.私は、普通に過ごすとワガママな性質を持っているんだ、と思い込むことで、いろんなことにブレーキをかけるタイミングを増やしてきたつもり.

素直な感情に従った行動なんてものは、むしろ恥ずかしいものであるという定義をしていた.
これ以上、自分が素直な判断をとるのは、わがままであるだろうと.


少しでも自分の欲が混じりそうな判断は、躊躇する.
例えば、仕事上で固定資産を増やすだとか、出張を設定するだとか、そういう判断がいかに客観的に問題がない範囲であるかは、ものすごく悩む.

仕事で必要になることが見えているiPad10台を購入するかどうかだけで、20時間も迷った.
「欲しいだけみたいな感覚はないか?」
「10台じゃなくて6台でいいんじゃないか?」
「使いこなせるのか?後でまた足せばいいんじゃないか?」


最近立て続けに三人も同じことを聞かれたので、こっちが驚くが、交際費としての領収書はもらったことがない.

むしろ、なぜそこを経費と判断できるのかがわからない.
ご飯を食べることは、人と会わなくても発生する費用なのだから、そんな境界が曖昧なものに、会社のお金は使えない.少なくとも、自分がいる場は自分個人のお金で処理したい.人との食事は、自分の気持ち分を支払っていると思っている.
でもこのやり方を人に強いるつもりはない.サラリーマンはいいんだよ、その会社の責任者が規定するルールに従えば.私も、私以外は存分に心地よくお金を使って仕事環境を整えるべきだと考えている.現に、ちょっとやりすぎかなと思うレベルに、働いてくれる人へ仕事道具を提供している例もある.
しかし、自分の責任範囲で事業を動かしている者として、自分の行動に曖昧なロジックを持ち込みたくないだけだ.少なくとも私の事業は、自分を肥えさせるためにやってるんじゃなく、違う目的があるのだから、そっちに向かうものだけにお金は使いたい.



判断基準のどこに重心を置くのかでしかないが、私は、他人や社会に理由付けを置くことで「ラク」をしようとしている傾向がある.

はたして自分の意思での判断なんてものは、必要なものなのだろうか?
それでも、目の前の疲れることを拒否したくなる時はある.プツッとやめてしまいたくなる.
自分の好みだけで目の前のことをリジェクトできる意思決定能力というか、反射神経的アクションが羨ましい.


自分のために生きるなんて、全く価値があると思えない.
臆病なので、外に基準を置くことでしか判断できないだけかもしれない.
ある意味、信仰みたいなもんだ.
心地良さ、居心地の悪さなんて、所詮自分のわがままでしかないと思える.
生かされているだけなのだから.

居心地いいことを選んだ時、発生するメリットなんて、仕事のパフォーマンスが上がるかもしれない、くらいのものなんじゃないか、とも思う.


結局のところ、私には主体性がない.

主体性を持つべきだとも思わない.



ラクをしているつもりで、しんどい.

しんどい選択をするという、ラクを選んでいる.



いわゆる「大変だ大変だー忙しいーしんどいー」と言い続けて、ミサワなだけなのだ.
更に、ミサワ的に終わるのがワガママなんじゃないかという恐怖心から、人智を超えるくらい追い込めばいいんじゃないか、という勝手な言い訳を作っている.

だから、目の前のしんどいことから、素直に逃げることができない.
冷静になると、しんどい、逃げたい、誰か助けて欲しい、と思ってしまっている日もある.


そんな不必要な感情を封印するために、食も変えたし、お金の使い方も変えた半年間だった.
そこに至るまでに、臆病な心が逃げ場を失って、思考という納得を自分の中で処理しきれなくなるという経験をした.



自分で意思決定するのは、とてもしんどい作業だ.
一貫性なんて捨ててしまいたくなる.
臆病な私は、自分の「外」に価値観の拠り所を作ることで、意思決定の言い訳を作っている.
ただそれが、結果として何か他の人のプラスを生み出せるなら、それ以上の言い訳と拠り所が無いと思い込んでいるだけだ.



毎日呪文のように唱える.

「これは自分だけが得しない判断になっているか?」
「自分の持ち得る能力と、世の中にある課題のうち、最大公約数の幸せを作る判断になっているか?」