フルスイングしてみる

 大人になると、生きている時間の多くは「仕事」に費やされる.楽しいか、楽しくないか、好きな仕事か、そうじゃないか、そんなの関係なく 食べる時間や趣味の時間、時には寝る時間よりもずっと多くの時間を「仕事」に費やす.


 延々と続く気もしてくる「仕事」という存在だが、気をつけていることが一つだけあった.
「2年以上同じ課題と向き合わない」
ということ.克服できない課題は、確かに自分の問題であり、弱みなわけで、逃げずに克服したほうが良いことは間違いない.だけど、同じ課題を一年、また一年と向かい合っているなら、それを越えるための努力のお陰で、他の伸ばすべきこと・機会を失っているはず.仕事は、一人でやるものではないから、コントロールできない範囲・コントロールしやすい領域 というものがある.コントロールできない範囲の課題克服は、ほとんど徒労に終わってしまう可能性だってある.(これは個人の働き方だけでなく、事業の狙う領域、という意味でも同じ)


 更に言えば、延々と続く気もしてくる「仕事」という存在だが、自分が闇雲にがむしゃらに「試してみながら」仕事をできる期間というのは、とても短いものだと思う.歳を取れば取るほど、がむしゃらにできるのは「体力的」にも、「機会」としても減ってくる.やれる時に、がむしゃらにやっておかなければ、その機会は失われる.



 サラリーマンの終わりの方で、私は 上記2つがとても怖かった.
 私が 毎日の生活時間で「フルスイングしている!」「もうやることいっぱい過ぎ!」と思ったのは、それまでの生活の中で14−15歳のときだけだ.(一人4役くらいを回していたと思う.年齢も騙してw.摂取物がリポビタン→ユンケル→点滴に進化して、徹夜を続けたのも あの時が一番だったと思う)それ以降は、暇というか余裕のある仕事量だった.18からの起業でさえも、14−15歳の時の忙しさに比べると仕事量的には余裕だった.
 サラリーマン時代に、部署として与えられた分の仕事だけで毎日を終えたことはなかったと記憶しているものの、夜遅くまで残業していたとは言え、仕事量的にキツいものというわけではなく、「時間を必要とする仕事」であっただけだったと思う.自分の中で、自分のできる限りのことを 振り切るほどやる と、むしろ萎縮されるので、抑える方が仕事になったりもした.


 変に途中で諦めずに、最後まで振り切ってみたい、やり切ってみたい.そう思っていた.やれる限りの最大の努力もせずに、諦めなくてはいけないことが多過ぎた.



 幸せだなあ、と思える最近の生活は、これが解消されていること.正直、14−15の時よりも今の方が忙しいと心から言える.
 仕事のフェーズは、数ヶ月に一回変化し続け、その度に新しい挑戦・勉強・マネージを習得しないといけない.ストレスはある.「また苦手なこと出てきちゃったよ、あー、新しくて知らない仕事だよ、これ・・・」に日々向き合っている.1〜半年前の「企画・開発メイン」の時期、数ヶ月前の「資金調達メイン」の時期、そして最近の「人材採用メイン」の仕事が、それぞれ違う発見・挑戦をもたらしている.貴重な経験.
 資金調達が決まるたびに、責任を感じる.お金を遊ばせておくわけにはいかない、人を呼び、より良い条件で働いてもらい、より良いものを作っていく.



 12月から、関わる人がぐっと増えたわけだが、面白い職場・機会を作れているのではないかと、自分では思っている.うちは、残業の概念が無い代わりに、休日取得・休憩取得も自由なので、仕事の管理が 自己目標設定&事後評価で 残業代分に近いものの給料調整となっている.1月分について、各人との評価調整を行った時、多くから「面白い仕事と出会えて良かった」「もっと他の仕事を振ってくれても良い」とコメントが出てきていて、とても嬉しい気持ちだった.

 新しい仕組みやルールで、何かを始め、続けるのはとても難しい.自分が作っているルールですら、対外的にそれが理由で、銀行やファシリティ系の契約条件として不足していると 断られることも多々あった.
 でも、新しいことを作るのは今しかない、とも思う.ルールを作るのも、自分の仕事の一つ.外部環境がそれを拒否しようとも、中で働いてくれる人にとってメリットがあるのであれば、そこは外部に対する傘を作って自分が作り上げるべきだと思う.
 商品も、働く環境も、「新しいけれど本質的」なものを作っていきたい.



・自分の周りにある人・資源・機会・お金を活かすこと
・将来性のある領域に狙いを定めること(働く人たちの幸せのためにも、ジリ貧になる仕事を作るのはマズい)
・最終目標を見失わず、ツール・ルール・プロセスを目的化しないこと

これが、最近の私のテーマ.これに向かって、新たな挑戦を毎日繰り返す.