技術進化と中身の良さは別に考えるべきという話

FTは、何年も購読していた唯一の媒体なんだけど、確かにおもしろいんだよね.ちゃんとトレンドを先取りできるセンスの良さがあって.
日経→日経産業→FTと流れた私にとっては、感慨深い.

Nikkei to buy FT Group for £844m from Pearson
http://on.ft.com/1gPSXGY

日本側の報道では、「デジタル化がうまくいっていることを評価して」的なことを書いてあるけれど、FTがデジタル媒体でうまく行っている理由は、決して「デジタル化の上手さ」ではなく、
1.一国にとどまらない購読者を納得させるだけの内容の普遍的なレベルの高さと、
2.強いて言えば、読者層(あれだけの価格が払える・Knowledge worker)が、Kindle含め電子“読書”に抵抗がない国をメインで抱えているから
という二重の理由なだけだと思う.欧米圏は日本と違って、オーディオブックの文化も長いし、Kindleの活用率もずっと高い.
日本でいくらデジタル化したくても、既存の読者層が 新聞以外の部分でも電子“読書”と縁遠いので、けっこうキツイだろうなあとは思う.時間の問題ではあるだろうけれど.


3年ほど前に、BBC・Channel4の人のパネルディスカッションを聞いた時の、「テクノロジーの進化とコンテンツの進化は分けて考えるべき」という話を思い出す.この2つはどんな領域のビジネスに居る人であっても、中の人であれば、あるがゆえに混同しがちな点だと思う.
「デジタル化をどうするのか?」「ネット対応をどうするのか?」「Mobile対応をどうすべきか?」
「そんなものYouTubeが対応してくれる、良いコンテンツさえあれば勝手に技術進化は対応したものが出る」
という話だった.その場では「YouTubeも敵ではなく、国を超えたブランディング構築のチャンス」と捉えた発言が出ていた.

どちらの話をしているのか、どちらを担うのか、は、常に意識しておきたいことだ.


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それにしても、昨日は3−4日ぶりに 寝てしまったので更新できなかった.悔しいのう.でもまだやる(べきだった)こと終わってない.

不正の正当化という心の拠り所(東芝不正会計)

今日の一番のニュースは、東芝不正会計の社長会見かな.
仕事しながら、ラジオ代わりに流して聞いていたのですが、
質疑応答の後半で「大変恐縮ながらその質問には回答を控えさせていだきます」が印象的でしたね.


まあ会見中ずっと、腫れものに触れるかのような言葉選びがされた受け答えだったわけで、
日本の大企業って 自分の意見をその場で出せない文化だったなあと思いだした.


きっと不正会計の実態だって、誰か恣意的な考えを持って強行した人が居るわけでなく、
小さなレベルの体験が、経験という麻痺によって
「いいことではないかもしれないけれど、別に悪いことじゃないよね、
 それでハッピーな人がいるんだからさー」
くらいの感覚に誰もが侵されていたのだろう.


あのアホみたいに繰り返していた「20万人の雇用を守るために」が、
その心の拠り所なんじゃないだろうか?



誤魔化しの永久機関は存在するのか?どこまで続けられるのだろうか?

お祭り化するネットサービス

まあ、こういうのってネット上の「祭り」として、リアルイベントと近づいてきたってことだけよね、って話だと思う.
Amazonがこれで顧客の信頼を失う的な書かれ方してるけど、そんなこともないんじゃないかな.事実、リアルなバーゲンとか、イベント系の買い物ってほとんどは「がっかり」で、“「Surprise」が8%”なんて当たりが良いほうでしょう?

評価の割合をまとめておくと「Sadness」が50%、「Joy」が23%、「Admiration」が19%で「Surprise」が8%となっている。

つまり、Twitter上での評判は良くなかったものの、いずれにせよ顧客を引き寄せる役にはたったということだ。リンクを辿ってAmazonを訪問した人には、実際に買い物をした人も多い。Amazonからはプライムデーにおける販売額などについてのレポートが出ているが、ネット上に流れた悪評についての言及はない。

Twitter上で「こんなものいらない」などとも言われた製品(マイクロファイバータオルなど)の販売数が多くなっているという現象が見られるのは、なかなか興味深い(マイクロファイバータオルは1万枚を売り上げた。また、やはりTwitter上で「Amazonのセールスでこれはなあ」などとも言われていたラバーメイドの食品保存容器セットは2万8000セットも売り上げている)。


ソーシャルメディアでの評価は散々(?)だったAmazonプライムデー
http://jp.techcrunch.com/2015/07/19/20150717amazon-had-mixed-success-with-prime-day-strong-sales-but-consumer-backlash-could-linger/


最近、FacebookTwitterも思わずろくでもない言をつぶやきそうになる上に、どこにも露出してなさすぎて、生きてるのか死んでるのかとか言われるようになってきたので、ぼちぼち危害のない程度のことを書き続けようと思う.

税金への現実感と、市場論理を用いた理由付け

ここまで簡潔に、この国に税金を払うことに納得できる理由が述べられている文章は、これまでで初めて出会ったように思う.

そう、日本に税金を払う理由は、「美味しいものが食べられて、安全に過ごせて、季節や文化・経済も含めた生活の楽しみもある」.そこに住みたいと思えば税金を払えばいい.そこが価値ある住環境ならば、税金が高くても住みたい人はいる、と.
いやあ、初めて(だと思う)社会福祉的課題に対して、経済市場論理を用いたロジックの理由付けを聞いたように思うんですよ.

日本のほうがよっぽど飯は旨いし環境は良いし気候は良いし、そんな逃げませんって。日本で。


小学校の頃に、社会の授業か何かで「消費税について」とかいう副読本(資料雑誌)を配られ、感想文を書くなんてことがあったことを思い出すんですが、だいたい税金の話って「こんなところに使われます」「お年寄りや障害を持つ人の生活や、子育てなど、みんなが過ごしやすくなるでしょ?」という「未来系(使い道案)」のことしか書かれてないんですよね.
で、その使い道案が、イケてないわけですよ.マイナスでも、0点でもないけれど、決して100点でもなければ120点でもない 普通のことしか書いてない.そんな内容なら 払おうという気がしないんですよね.*1
必要に迫られてしょうがないんです ってことしか書いてなくて、それならどの国であってもほとんど「必要ならしょうがないんです」って案ですよね?しょうもない使い道案を出されても、「はあ?なんかもっと悪くなって行きそう・・・」って思えちゃいますから.


税金が足りなくなったら、「今ある何」が失われるかの現実感が持てないんですよ.


日本の良いと言われるとこが維持される、もしくはもっと良くしていけるなら確かにお金払ってもいいなって思いますね.その環境を得たいなら、金払え ならとっても納得いきます.


まあ、話の内容としては じゃあどこまでが生活に困らないお金で、どこまでならモチベーションを削ぎ落とさないのかとかの具体論はとっても難しい話だと思いますけど、前向きにするためにどう施策を打つのかという意味で メッセージとしてもとても面白い話のように思います.

http://logmi.jp/37340
話題の経済学者トマ・ピケティ教授の来日に絡めて、2月5日の大阪市長定例会見では記者から橋下徹氏へ、富裕層に対する課税についての質問が飛びました。橋下市長は「100億円の貯金に課税されるからって外国に逃げる人は、逃げてもらえばいい」と、所得の再分配に関する持論を展開しました。(2015年2月5日 橋下徹 大阪市長 記者会見 より)

*1:(いやそれでも相当私自身は、税金とか年金払ってる方の部類だと思いますけど)

誰と仕事がしやすかったか?という問い


まだ仕事中です.
blogまで手がでないくらい、仕事がやばいっす.

この1年は、「1000本ノック」と「誰と仕事がしやすかったか?という問い」で構成された1年だったのだと思う.

1)1000本ノック

新しい取り組みなんて、そのほとんどは1000本ノックで構成されると思っています.2014年内に「1000本ノック」という語句を何度口にしただろうか?

この1年間で、私は やるつもりのなかった仕事をやらざる得ない状況にいくつか陥って(仕事の組合せを組織的に作ってしまっているので、1人欠けると影響が大きく、スケジュール上、自分が補完せざる得ない状態)、パンフレットデザインは何十本というレベル、ウェブデザインも後半何本か、手を出すまいと思っていたBootstrapは0から自由に使えるレベルに慣れ、当たり前にObjective-Cは使えるようになり、しょうがなくMySQLはいじり、CakePHPはなぜかそこそこ使いこなせるようになり、必要は発明の母じゃなくて習得の母だなあと思いつつ.

1回やるだけでは素人.でも、つらいながらも何度も何度も取り組んでいるうちに、他社のいいものを調べて見比べて、作って作って作りまくるという状況に入ると、そこらへんのクラウドソーシングで頼む仕事で、価格に見合ってないものが見積り段階で判断できるようになってしまう.やっと年末に、「そういう観点」で発注する取り組みを始めた.
そう、こなすだけなら要らないんです.自分でやろうと思えばできるから.時間の問題はあるけれど、時間よりもクオリティとして後で後悔するものができると、作り直しになるのです.プロが欲しい.

2)「誰と仕事しやすかったですか?」

会社では年に2回、360度評価を含む査定時期を定めている.任意ではあるものの、バイトから正社員まで全員を対象としている.1回目の反省を活かして、個人特定できないけれど、アウトプットだけを評価できるように いろいろと工夫している.
で、その評価に加えて、一人一人と面談(多くはWebチャット)をして、そこで次の半期のフォーメーションを決めるための相談をしている.誰と組み合わせるのがいいか、が大きなポイントになる.

査定の時期だけでなく、マンツーマンの打ち合わせごとにおなじ質問はしているのだが、振り返ると面白い現象があるなあと思わせられる.



「誰と仕事がしやすかったか?」



その対象として一人目に出てくる名前の人と、できるだけ一緒に仕事をしてもらうような組織に変えることにしている.とにかく、自発的に出てくるの名前を大事にしている.
結構面白いのは、仕事領域として少し遠い存在でも出てくる名前の人がいること.(直属だと関係が悪くなるとかではなく、その後組合せてもずっとうまくいくことが多いのも現実)

そして、諮らずしも その対象となる人物が、「周りに気を使って、心地よい環境を作ろうとしている人」ではなく、「仕事として真摯に結果を残そうとする人」に集中するところが面白いと思う.(もちろんこれは、うちの会社の特性なのかもしれないけれど)


時々びっくりするのは、直属・直接関わっている人の名前が、1人も出てこない時だ.すごくびっくりする.その当人がどう扱っているか、どういう上下関係かも知っているだけに、「え、ここで名前出てこないんだ・・・」と思ってしまう.
(まあ、多分、私が一番上でなく 雇われ人なら、そっち側の人です.)



「誰と仕事がしやすかったか?」
これは、私から見えない角度のその人の仕事・成果がわかる質問なので、本当に面白い.

全体最適と「個人攻撃」と「ラク」の戦い


「何かをしたい」がための 「我慢」と「自分のラクさ」について天秤に掛けるから、妥協が生まれる.


例えば、何か作りたいモノがあったり、自分持っている領域や責任範囲を全うしようとすると、時々 そのことで損が起こる立場の人から「懸念という名の横槍」が入ったりする.その横槍は多くの場合、全体最適なんて考えているものではなく、「その個人のラクさ」起因であったりするから、そこに対峙するというのは ある意味「個人への攻撃」に近い反対意見として捉えられがちの内容となる.
誰だって仕事のために個人を傷付けたり、恨まれるようなことは望んでいないので、そこに遠慮や妥協が発生する.ここに、全体最適よりも「(個人攻撃だと思われたく無い・したく無いという)ラクさ」を求め始めると、つまり 双方の「ラクさ」の戦いになる.


これがいやでいやでしょうがなかった.別に人を陥れるつもりも、傷付けたいから強く言っているわけでなくとも、結果的にその人の「ラク」を奪うしか選択肢の無い天秤で、全体最適を追及することに疲れた.
だから、自分でルールを作れる土俵に切り替えた.今は全体最適を求める時に、誰かの損が起きることがあっても、その損の分を埋める別のオプションを用意することが出来る.相当な広い権限が無いと、「別のオプションを用意する」という工夫のできない組織が多いと思う.むしろそれを知らないがために、双方の妥協や追い込みでしか解を探せない組織も多いと思う.


でも、人間の本質はあまり変わらなくて、いくらオプションを用意したとしても、遅かれ早かれやっぱりそれも我慢出来なくなる人が多い.逃げ始める人は、結局どこまでも逃げてしまう.効率という意味では、オプションなんて用意しないことが「会社としてラク」なのだと思う.


ラクであることが目標だったのか、ラクして目標達成したいのか、ここの混同は不幸を生む.誰だって後者でありたい怠惰心はあるが、前者を目指す場合は「他の欲」よりも、「ラクというプロセスへの欲」を優先していることを意識すべきだろう.誰よりもラクをして、金メダルを取った人なんて見たことが無い.全員が金メダルを取れるものでなく、金メダルを取ることに競争が発生している限り、ラクをせずにそれを求める人が一人でも出たら、ラクと金メダルは両立しない.


究極の理想は、自分のラクさを我慢して、したいことをするしかない.つまり、目の前にあることを「自分の損得感情から切り離す」ことでしかないと思うが、これができるかできないか、その範囲が広いか狭いか、どこまで許せるのかは、その人の持つ「特性・性質」と環境的な「文化・教育」によるものだと感じる.
世界なんてどこまで行っても、自分がいかに広いと思っている範囲ですら、お釈迦様の手のひらの上で遊ばされているだけだったりするので、その時時でどこまでの想像力を持って冷静になれるか、しかない.



妥協ではない「双方の納得点」を探す作業は、お互いの持ち駒を理解することからしか始まらない.それは、無いと思い込んでいる・忘れている持ち駒も含め、新しい解を探すことになるのかもしれない.
別に、仕事の範囲のだけの話でなく、世の中に起こってる大なり小なりの争い事や、妬みなども、存在している所与の条件の差・偏りに対して、解決策の模索に妥協が生まれ、争いというラクな解に逃げているだけだったりするわけだ.


私はいつも、会社のルールや会社から出すプロダクトに、自分の中にある「こうなってほしい」というある一定の価値観を植え込んで作っている.
今日のテーマに関係する会社のルールとしては、先ほど書いた「全体最適のため損」を「他のオプションで補う」こと.


プロダクトとしては、「納得点を探す」ための、「議論・思考サポートツール」.様々な角度から持ち駒を出し切る・俯瞰するための工夫をしているつもりだ.
例えば、分かりやすい点で言えば「画面上に表示される意見・提案」は「誰が」「いつ」出したものか、極力分からないようなルールにしている.重視すべきなのは内容・中身であり、人間の弱さである「誰・いつ」といったバイアスに、できるだけ引きずられないようにするためだ.
ルールに従って使ってもらえれば、「持ち駒を出し切るため」に、書き出している内容・状況から、足りないと思われる要素について アラートで問いかけるようにしている.この、足りないと思われる要素については、これまで社内で蓄積してきたデータに基づくものであり、今後もその種類や状況によって成長していくものとしている.



物事には、人が介在することによって円滑になるものと、人が介在するから問題が起こりやすくなるものがある.どこにどちらが当てはまった方がいいのかを良く見極めることも必要だし、特に後者の「人が介在するから問題が起こりやすいもの」に対してはまだまだテクノロジーが担うべき価値・意義はたくさんあるはずなのだ.
ここに切り込みたい、というのは、うちの会社としての大きなテーマである.

炎上じゃなくて、話したかったビジネス観点のこと


今回は、本来議論したかった内容について書くことにする.

この炎上問題については、私は間接的?な関わりになっているのと、こちらから見た主張については多くの人たちによって書かれているのでいいとして、(この内容は、もう2週間程前に書き溜めたものだが)一回まとめとかんと、今日本当に書きたいと思っている別のネタのエントリーが出来んので.

Introduction

そもそものきっかけの「一方的な批判」という話.

「なんで潰したと思うか」について.
私も あの頃のパーソナルオーディオ部隊が、日々 どこどこの工場を閉鎖するだとか、組織変更(多組織へ併合・組み入れで中間管理職がぎゅうぎゅうになっていく様子など)で、大きな部隊がみるみるしぼんで行ったことを覚えている.その一方、外に打ち出すプロダクトが、外見良くても、よくよく聞くと歩留まり率がハチャメチャなままでgoサインかけていたり、商品化の更に下のレイヤーでの技術的仕込ばかりに開発費を投入しているのを見て、「え?」って思うことがたくさんあったことも覚えている.
もう取り返しのつかないところに来ていたかもしれないものの、あれはやっぱり、経営者の責任だと思う.


「何があったかは、全て本の中で清算した」とのこと.

ここから書く内容は、辻野氏の本を読み終えた上での話です.彼の本が出た時に本屋でザッと見た感じ、人生ストーリーとしては面白いかもしれないけれど、ビジネス面での戦略考察のある本だとは思わなかったので購入していませんでした.ですが、私もちゃんと読んで、考察します.米国滞在中に読めるようにkindleでも買いましたし、日本には紙版も注文しました.(こうやって、本の売上を伸ばす炎上ステマだったらどうしよう...)


組織論の面から

tks900さんの書評でも言及されていたが、用意されるはずだった組織(子会社独立含む)を、うやむやにされたまま事業をスタートする時点でかなり厳しいものだったと思う.とは言え、あの大組織の中での長であり、敵対?する旧Walkman部隊を横にしての立ち上げは、きっとそれを上に訴えている暇もないくらい 組織作りに奔走していたことだろう.

本来は、新組織化にGoサインを出した辻野さんの上司こそが、組織化だけは厳守して実行すべきことだが、言っちゃ悪いがあの企業の役員クラスは その多くがやはりサラリーマンの上長気分のままで上に登っている人も多いはずなので、その「最低限守るべき経営者としてのライン」ってものを意識していない人は多いように思う.
経営者が最低限やることは、事業の舵取りではなく「環境整備」であることを もう少し認識する人が居てもいい気がした.第一人者としてリードしていくためには、第三者的な視点であり、第三者として支える側に回る黒子でしかないことを肝に命じていないと、トラブルが起こった時に慌てるだけになってしまう.これは私が12年前に失敗しつつ学んだ大きな鍵だ.

ビジネス戦略面から(1)

とは言え、ビジネス戦略面からの物足りないことは間違いない.辻野さんの言う「ハードとコンテンツ」を融合させることは、Appleが成功したモデルであって、既にやって当たり前・やらなきゃ死ぬという前提条件になっていたものの それを追いかけただけでは勝てないのは間違いない.どんなに資産があってもその戦略については、もはやフォロワーだったのだから.

で、差別化要因をどこに置くべきであったか、というと、美しい筐体か?という話.石けん箱より、香水瓶の方が人気があったように思うが、前述のように歩留まり等 大量に売りさばくためにはかなりの不安要素があったように思う.経営者としてはここのバランス感覚が必要で、AppleiPodの素晴らしさは 変わらない形状を続けることによる、生産効率の向上であったと思う.初期世代の特徴的な「ホイールUI」を止めてですら、生産効率を高めていくあの姿勢に対して、なぜあのコロコロ変わる筐体を 戦略的に据えられたのかは謎だ.

美的であることを売りにするならば、それだけに死ぬ気で投資を賭けるべき話なのだ.それを売りにするならば.
美的なことに惹かれて買う人が、増えれば増えるほど自分たちが得をする仕組みで売り出さなきゃいけない.綺麗なものを売りにするなら、そこにそれなりのコストは掛かる.売れれば売れるほど、そこに過剰な負担が起きるモデルは作ってはいけない.例えば、良いデザイナーのお陰で綺麗な筐体が出来るならば、初期だけお金は掛かるが 売れれば売れるほど得する作り方をするべき(単価を上げておくとか、更にコスメティックなアクセサリーを買わざる得ない仕組みにしておくとか、筐体以外の部分でのコストをムチャクチャ抑えるとか).とにかく、追いつくべきところと、絶対に優位を持つべきところの戦略は気になった.


ただ、美的なところを売りにして良かったのか?というのは、そもそもの疑問.全く別のビジネスモデルとしてお金を吸い上げる口を用意すべきだったんじゃないだろうか?そこは、音楽会社を持っている会社だからこそ「どこのセンスにお金が付いてしかるべき」をもう少し追及しても良かったのではないか、と思う.
お金ってのは希少な価値に払われるものなのだから、希少な価値として何を位置付けるかは、あの大きな会社なら設計出来たはずなのだ.

ビジネス戦略面から(2)

先ほどの、売りの一点突破をしにくく、総合的に完成度を求められるという意味では、大企業たるソニーの苦しさはよく分かる.Appleがいかにあの当時でもそこそこの大きな会社であったとしても、音楽プレーヤー参入は0からのスタートだったわけで(のちの携帯参入が0だったのと同じく)、既存顧客が少なく期待も少ない中でのスタートというのは、やっぱり楽なものなのだよね.辻野さんの本の中にも書かれていたが、「iTunesが走りながら修正していった」というのは、あの立場だったから許されたものであって、ソニーは同じことをやろうとしても内外からの圧力は高かったろう.もちろん「(ボタンが陥没するのは)仕様です」くらい言えれば、問題ないだろうけど.

じゃあ、どうすれば良かったのか?
正直ここについては分からない(分からないからこそ議論したかった点だ).市場期待の大きさに応えるべく 時間をかけて完璧なものを出すべきかと言うと、そうじゃないだろうということは、自分が働いていて思ったジレンマ.ただ、巨体なのでしょうがなく掛かる「リードタイム」は、どう使うべきなのかは、未だに私には答えが出ていない.
むしろ、周囲の説得を含めたリードタイムを包含するリスクを追うくらいなら、身軽な位置からまっすぐ勝負をかけたいと思ったから今の自分があるわけで.


そういう意味で、トップが2人居たことが問題なだけではないと思った.もちろん、組織論的にやりにくさはあっただろうけれど.

もう一言、アプリソフトについて言うとすれば

どこぞやでコメントされていたが、ウォークマン凋落の原因として、アプリケーションソフトについて言及されていた.

この領域については、私からはしばらく言及できないのが残念なところ.
私は、S社に居た最後の仕事で、(ウォークマンのアプリではないものの)ほぼ同じ開発部隊と関わっていたために、その様子が容易に想像つく状態.改善を望んで取り組んだものの、理由があってそれが不可能になったことは、これも大きな退社の一つの理由となっています.

Conclusion

今回の件については、ちょっと反省している.
ある意味、辻野さんからの返答が滞った時に、「これ以上相手にしてもしょうがないから」とtks900さんがブロックして無視しようという対応に対して、「ブロックせずにやり倒したら?負けないでしょ」と、ある意味煽るようなことを書いてしまったのだよね.ごめんなさいね.(もちろんストレートに本音です.変にブロックしたり削除って、逃げっぽく見られるのもヤだし.元々いつも正々堂々議論する姿勢を持っているtks900さんだと思うので、そういう点はいつも尊敬しております)


その後、tks900さんが 一部のツイートを削除した上で、実名部分は削除するように辻野さんに伝えたのは、きっと私の名前が一緒に出たのも大きかっただろうと想像しています.(私は、辻野さんのtwitterはリストにも入れておらず、それまでの様子はtks900さんのツイートからしか把握していない)

私は元々、ネットのどこでも本名で活動して来ているので、気にする必要は無いのだけど、それを伝えるのが遅れたために、tks900さん側の気遣いに対応することが出来なかったのは後悔.その当時、私は株主総会中だったため、半日以上Twitterを触れておらず.
更に、今回取り上げられた期間は、海外展示会出展のために日本を離れており、これまたリアルタイムの反応が出来ず.なんとも都合の悪いタイミング.


私が「頭パッパラ系」と書いたのは、”上部に書いた”ような内容を考えているとは思えない 役職付きが居る事業部が結構あるなあ、という実感があったから.
もちろん全員がそうではないし、他の会社にはなかなかいないすっごく優秀な役職付きもたくさん居る.ただ、あれだけの大きな会社を動かしているのだから、頭を使ってしかるべきで、そうじゃない人が上に上がってる構図ってどうなのよ、とは思わずに居られない.